日本の伝統文化と、正しい歴史認識を伝えたい❗

日本の伝統文化紹介と、日本の現状と問題点。

今日は何の日

2022-05-27 07:59:07 | 日記


海軍記念日・日本海海戦の日(5月27日 記念日)

1905年(明治38年)のこの日、日露戦争の日本海海戦において東郷平八郎(1848~1934年)が率いる日本海軍連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を撃滅し、日本が歴史的な大勝利を収めた。

この勝利により両国間のポーツマス講和会議への道を開いた。かつては勝利を記念して「海軍記念日」に制定され、この日には記念式典などが行われていた。しかし、1945年(昭和20年)を最後に、日本の太平洋戦争敗戦により第二次世界大戦後に廃止された。

海軍記念日式典:1944年(昭和19年)
海軍記念日式典(1944年)
頭上にはためく旗は朝日新聞の社旗

同様に日露戦争で1905年(明治38年)3月10日に旧満州(中国東北地方)の奉天(現:瀋陽)を占領したことを記念して設けられた「陸軍記念日」も戦後に廃止された。

海軍記念日、陸軍記念日は廃止されたが、現在でもこの日に、神奈川県横須賀市の記念艦「三笠」において日本海海戦記念式典が毎年開催されている。三笠内の講堂で、国家斉唱、黙とうなどが、艦上では海上自衛隊音楽隊による演奏会が行われる。

戦艦「三笠」は、日露戦争において連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令長官の東郷平八郎らが座乗した。現在では、三笠公園内に記念艦として保存されている。その三笠公園内には東郷平八郎の銅像も建てられている。




今日は何のします

2022-05-26 07:41:28 | 日記


源泉かけ流し温泉の日(5月26日 記念日)

鎌倉時代の第84代順徳天皇(1197~1242年)の時代から「日本三御湯(みゆ)」の一つに数えられた長野県の野沢温泉。その源泉をかけ流しで提供する旅館などで結成した「野沢温泉源泉かけ流しの会」が制定。

日付は、この日が「源泉かけ流し全国温泉サミット」の開催日であり、また、「ご(5)くじょうなふ(2)ろ(6)」(極上な風呂)と読む語呂合わせにもなっている。科学的にも確認されているその泉質の良さをアピールすることが目的。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。

「日本三御湯」は、順徳天皇のときに皇室が選ぶ日本の名湯9ヵ所の中で、三温泉だけに「御湯」という称号が与えられたことに由来する。宮城県「秋保温泉」(名取御湯)、長野県「別所温泉」(信濃御湯)、長野県「野沢温泉」(犬養御湯)とされている。

野沢温泉 麻釜

野沢温泉は、長野県の野沢温泉村にあり、麻釜(おがま)など30余りの源泉がある。泉質は硫黄泉で、浴用効果として、慢性皮膚病、慢性婦人病、切り傷、糖尿病などが挙げられる。温泉街の中心にある「大湯」をはじめ、「外湯」と呼ばれる無料の共同浴場が13ヵ所あるのが特徴で、源泉かけ流しの外湯めぐりをすることもできる。




お昼ごはん🎵

2022-05-25 13:04:16 | 日記
お昼ごはん🎵

打ち合わせの帰り道に【中華そば 北京】に寄って昼ご飯にした。

何にするかメニューを見たら、商品が全て数十円値上げされていた。

この店にも遂に値上げの波が寄せて来たようだ🥲



暑いので、大盛りざるラーメン定食を注文しました。
この大盛りはご飯のお代わりは出来ませんでした😅



お腹一杯に成りました。
ご馳走さまでした😋

ざるラーメン定食の、麺・唐揚げ・ご飯に付いては変わりなし😊

他の物も頼んで見る必要は有るが、以前と質も味も遜色無いですね。
取りあえずは良かった良かった。



神道とは

2022-05-25 09:01:53 | 日記
◎神道 八



◆教義 二



中世には、このような神道古典に見られる基本観念を体系的に追求し、神道の教学化を図る動きが見られた。

その最初期の動きは、両部神道や山王神道など、仏教の僧侶たちが仏教の教理に基づいた神道解釈を試みた仏家神道であった。
それらの仏家神道説に影響を受けつつ、それに対抗する形で、神宮神官らにより社家の立場から神道説である伊勢神道が形成された。





伊勢神道の教説は、それまでの神道祭祀における観念を、外来宗教の語彙も活用しつつ論理化したものと捉えられ、これまで神道祭祀において重んじられてきた祓や禊などの身体的清浄を心の問題として解釈し、「正直」「清浄」を神道の徳目とした。
中世後期には、それまでの中世神道の展開を集大成し、仏教から独立した教義・経典・儀礼を持つ神道説である吉田神道が形成された。

吉田神道の教説は、この世の中の現象の全てに神が内在するという汎神論であった。

#神道8


今日は何の日

2022-05-25 07:36:13 | 日記


食堂車の日(5月25日 記念日)

1899年(明治32年)のこの日、私鉄の山陽鉄道(現:山陽本線)において、官設鉄道・京都駅~三田尻駅(現:防府駅)間の急行列車に日本で初めて食堂車が連結されて走った。

山陽鉄道 食堂車

当時の食堂車は一等・二等車(現:グリーン車)の乗客専用で、メニューは洋食のみであった。当時の列車は揺れが激しく、ゆったりと食事をするというものではなかったようだが、それでも「汽車で景色を見ながら洋食を食べるなんて、モダンだ」と好評であった。食堂営業は山陽鉄道の直営の後、神戸の「自由亭ホテル」(後の「みかど」)の請負いとなった。

官営鉄道(国鉄)に食堂車が登場したのは、それから2年後の1901年(明治34年)12月15日のことで、新橋駅~神戸駅間の急行列車に食堂車が連結された。食堂は東京・築地や上野で西洋料理店を営む「精養軒」により運営された。

その後、1906年(明治39年)4月1日に新橋駅~神戸駅間の三等急行列車に和食堂車が初登場し、誰でも食堂車を利用できるようになった。日常の生活習慣などを考慮してメニューは和食が主体であったが、一般に普及している洋食も提供された。