第40回くまもと歴史文化倶楽部例会が行なわれたので出席して来た。
講演は中村青史先生の「ジェーンズ来熊140年よもやま話」という題であった。この話は一寸聞きたいと思ったことも出席した理由であった。
ジェーンズについては北海道のクラーク先生より早い来日であり熊本に於いては9月17日にも来日140年を記念しシンポジゥムが開催されている。熊本ジェーンズの会も立ち上げられている。
その時は4つの分科①熊本バンド130年を考える・・同志社の教授は熊本様学校を閉じるとき同志社へ転学させたすなはち同支社には熊本の血が入っているのである。洋学校出身者たとえば海老名弾正等があってこれには同窓会が集めたものであった。・②食と生活・・・営学を中心とした教師がすなはちジューンズが一人で英語で教えた、そのためジェーンズはキャプテンジェーンズと呼ばれていた。この時代はまだ藩知事の時代であり、洋学校では人に重要なものは農業が重要でこれが熊本の食文化を支えて行く、 ③近代教育の問題・・・・教えを受けた人が新しい教育をおこしていった。・ ④家の問題・・現実の建物の問題、行く先の問題、移転するたびに建築が変わっている。煙突、暖房、、、基本的な洋式の建物は変化がない、日本の煤竹の建築とは異なる昔の物は現在は存在しない・・・トイレの場所はどこにあるの?等が検討された。
ジェーンズの教育は最初は通訳をつけようとしたが,以後は全くの英語だけの講義であった。洋学校時代の幾何も全部英語であった。生徒に対しては理解できた生徒が教師の役割をして教えた。生徒数は約200人程度であり生徒が教える役をする者も勉強になった。教育内容としてはジェーンズがアメリカ士官学校出身であったので教育程度はそれ並みであった。この難しい教育に対し、日本の語学教育を受けた人が不思議がっている。日本の文化は翻訳文化である。特に漢文しかり日本語化した漢文は日本語である。
漱石が英国へ留学した時英語学であるが自由に喋べれないので、ひどい目にあっている。ノイローゼの問題もこの辺に起因があるようである。森鴎外はドイツ語であるが会話より即興詩人等は日本訳の様がより
光彩を放っている。日本文化は翻訳文化である。言葉は耳で聴くことが主である。明治期の男女は言語のまま理解していた。日本語には訳しない。学校は教師次第であると蘇峰は結論付けている。
それではジェーンズの熊本洋学校の教育方針は?
殖産業を興し生活改善運動を行なう。
食生活の改善とは牛肉を食べる、牛乳を飲む、ジェーンズ自信牛を解体しているようである。皮革商人の話では殺したのはピストルと言うことである。
ジェーンズの来熊は日記の中で百貫港に上がって熊本へ来るのは大名行列並であった。熊本人は未だ西洋人を見下していたので藩知事は注意したのである。
ジェーンズの来熊は明治2年であった。熊本城の屋敷内から外へ出るときはジェーンズは馬で出かけている。しかし常にピストルは携帯していた。
洋学校が出来たのは実学党の時で実学党は竹崎茶堂でありジェーンズは日本的な素晴らしい農業であるが種じゃが等をアメリカから取りよせ改良していった。ミシンを持参して来て女性には裁縫を教えている。
ハーンの来日はその20年後でありその時は肉も、牛乳もあって西洋化していた。その5年後に漱石が来熊したのであるがジェーンズとハーンの記念祭を実施した時には大賑わいであった。
ジェーンズは実用的な学問でこれに対ハーンは精神的なもの物質と精神の相互する存在であった。ハーンは贅沢は戒めた。ジェーンズは食べ物を勧めた。これには20年の差を考える必要がある。外国人にとってはよかった。
九州鉄道の熊本までの開通は明治24年7月1日である、家庭へ電灯が灯り・・火力発電所が建設される。熊本の牛乳の普及は明治15年である。ハーンが来た時には肉屋もあって酒屋にはウイスキーもあった。
これは凡てジェーンズの恩恵であると考えてよい。熊本は早い時期に近代化されている。ハーンはこの近代化された洋式を嫌い日本の藁屋根を好んでいる。
ジェーンズの洋式は城内には同時期に存在していたと考えられ熊本には城壁が見える。防火壁であったかもしれない・・このようにして熊本は西洋化した街になって行ったのである。以上概略を記す