概要の続き
大正十一年六月十四日英語及び英語教授法研究の為英吉利・亜米利加合衆国へ留学する。大正十三年五月十六日留学期間満期になった為帰国した昭和十五年七月十八日満州国に出張する十一月十日~十一日紀元二千六百年式展奉祝会に参列する。十八年から二十年にかけて庶務課長、教授部長、教務課長、を歴任し、二十一年五月文部教官として第五高等学校教授に発令される二十二年六月外国語科(英語)の主任、学制改革により五高が熊本大学に包括された。竹内校長は突如として信州大学文理学部長(松本高等学校長)に転任発令されたことに伴い、二十四年五月三十一日熊本大学法文学部長事務取扱、第五高等学校十四代校長に就任する。二十五年三月二十五日には開校以来六十三年に渉る第五高等学校の閉校式を行った更に三月三十一日熊本大学教授に補され、二十七年三月三十一日熊本大学教授を退官した。
河瀬教授が着任したのは大正六年七月で、当時は五高教官の人事を刷新した吉岡校長時代であり、河瀬先生も吉岡校長が新進気鋭の教授として教員体制改革のため招聘したものである。それ以来、戦前、戦中、戦後と昭和二十五年学制改革によって五高が閉校され熊本大学法文学部に昇格された後の昭和二十七年三月まで、三十五年間に渉り五高のそして熊本大学教授として学生の英語教育に当たっている。特に目立ったエピソード等は見付けることが出来なかったが、ここでは卒業生の想い出の記を参考にありし日の河瀬教授の真面目な性格を偲ぶことにする。
東野 浩氏(昭和六年理甲卒)思い出すままから
河瀬嘉一先生(英作文)
英作文は忘れても原文は覚えている。「君らのような青年時代は水源地の水の如く純潔であれ。そして一路大海に向かって突進せよ。」
内田萬壽蔵氏(昭和十年文甲卒)先生方の思い出から
河瀬嘉一先生(英語)
この先生は恰幅の好い堂々たる体躯の先生であった。いつ頃のことだったか、黒石原という所で教官生徒合同の園遊会が催された後の帰りの電車の中でのことである。前の席に坐っておられた先生が、徐にポケットから箱を出された見れば当時あった敷島という煙草であった。中から一本取り出されたので次は火を付けるであろうと思っていたら、さにあらずまた別の箱を取り出された。バットという煙草であった。一体どうするのかと思ったら、その箱からも一本取り出し、敷島と重ねて、つまり二種類の煙草を一緒に吸い始めたのである。これには全く驚かされた。法務省勤務時代会談中ひっきりなしに煙草を吸う参事官がおり余りのヘビースモーカー振りに驚いたことがあったが、この先生のような吸い方をする人はそれ以前にもそれ以後にも見たことも聞いたこともない。この方が河瀬先生であった。
《中 略》
この先生の授業の特長は、一文の中の重要点(文中の最も重要な単語ないし句で、そこを充分解明すれば全文の趣旨意味が判明するような語句を、充分に理解出来るように、むしろ長過ぎるくらい精しく、かつ巧妙に解釈されたことである。これにもまたつぐつぐ感心させられたものである。
つまり訳し方が山形先生の「全体主義」に対して「重点主義」、「精密」に対して「巧妙」と言えるものだった。このお二方はその容貌と同様に解釈の仕方において対象的特色があると思っていたのである。
この先生が学習に使われた本の名や一語一句をどのように和訳されたかは覚えていないが、巧妙に長く説明された句の一つに「burn the candle at both ends」というのがあったことだけは何故か不思議に記憶に残っている。