上から現在の赤門、かっての赤門 武夫原グラウンド
教授としてまた校長として教育家の典型と言われた人である。
土佐の生まれで三高を出て東大哲学科を首席で卒業した秀才で東大卒業後はしばらく郷里の高知中学で教鞭を執っていたが、のち二高教授から千葉中学校長となり、次いで教育学研究のため、3年間独・仏に留学した、帰朝後東京高師、東北帝大、四高校長を経て大正十年十一月五高校長なった。
当時全国第一級の校長として名声を高めた。吉岡郷甫校長が公私の別を厳格にして生徒との接触を避けていたのに反し溝渕校長の教育方針はあくまで生徒との接触指導というところに重点が置かれていた。毎日放課後になると、夕闇迫るころまで運動サークルの練習を巡覧鼓舞している。余暇の時間があれば合宿所を訪問したりし、裃を脱いで恰も慈父の態度を以って生徒と歓談することを楽しみとしていた生徒が病気にでも罹るとわざわざ病院を訪れて実の親のように慰めたものであったとかいうことである。
溝渕校長は生徒の長所や短所を知っていたことは実に驚くばかりであったそうで。剛毅朴訥でならす竜南健児たちも校長の前では処女のように大人しかった。
溝渕校長の時代は思想問題の激しい時代で全国各学校ともストライキの洗礼を受けない学校は稀であった溝渕校長が左翼学生の指導のため苦心したことは想像以上で、実に涙ぐましきものであったと言われている。その甲斐あってか五高だけは盟休の圏外に置かれた。
これは学校側の生徒指導がよく、生徒は溝渕校長を慕い、その教育精神に絶対的信頼を抱いているためであった。
物事を処理するに当たっては石橋をたたいてわたるほどの慎重派であったと言われている。溝渕校長はどちらかといえば無口のほうで、何事も簡潔を選び、くどい挨拶などは嫌いなほうであったが、必要な場合には堂々と所信を述べ、決して人に下らなかった。
五高校長在職中に講堂、柔道場の新設、同窓会の創設、東光原の地均し等々手をつけたことは特質すべき功績といえよう。
五高在職中欧米を遍歴し、帰朝後文教審議委員会委員となって文教に貢献し、昭和6年1月出身母校の第三高等学校長となったが、三高でも名校長の誉れ高かくしかし在職中に長逝したことは惜しいことであった。
(五高人物史、習学寮史を参考する)、