五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

十代校長 十時 彌の作文について

2011-10-10 06:05:16 | 五高の歴史

石田亮一 〈 昭和十二年文科卒 〉 五高の第四代校長中川元氏の明治二十七年の日記帳に、当時の五高生の作文が四編綴じ込んであるのがこの程発見されれ、其の中の一人が、当時五高の文科一年生であった十時弥氏で、後の第十代の五高の校長であることが判りました。

中川校長の日記によると、明治二十七年五月八日のところに「生徒ノ作文ヲ大臣ニ差出」と書いてあるのに該当するようで、四人の名は、村川堅固、十時弥、松崎基礎、内田四郎、この四人の分が一つに綴ってあり、恐らく各学年代表とでもいうものらしいのです。

原本は美濃紙に墨痕美わしく認めてありますが、変体仮名が多いので、判読の便のため、半仮名に書き換えました。その他の漢字や用語は文体は原文のままです。

学習の説予科一年十時弥仰ぎ暖れば、青山長へに動かず、俯して見れば、滄海常に盡きず、げにや宇宙は神秘にして、万有は無限なり。花といひ、風といひ、知らずいづこより来りて、いづこにか去る。あはれ、天地は萬物の逆旅にして、光陰は百代の過客なりとは、誠なりけり。人は此間に生まれて、水の面にむすぶうたかたの果敢なき姿を趁ひ、流れに浮ぶ花びらのあへなき迹に従い、うつせみの命を運にまかせて、己か力の足らざるを憾み、天を仰ぎて甚大なるに驚き、地をながめては其廣きにまどひ、さても己が力の限りあるをもうち忘れて、ひたすらに天地に藏れたる玄妙を探り、宇宙に宿れる至理を求めんとす。かくて学といひ、術といひ或いは総合し、或いは分析し、至らぬ限は止めじといそしみつつ、このうは建ててかふは崩し、今日は造りて明日は倒す、言譬ば繊手もて大洋の水を掬ひ盡さまく欲するが如し。いかで其終に至るべき、その学といひ、術といふも、唯人間のはかなきさびに過ぎず、あはれ草の葉末の露のごとく、珊 々 として散り果てぬべし。さらば学習は遂に人世に益せざるか。いな、そのかみ、フランシスベーコンといふ人のいひけらく、学習は識力と快楽と彩華とを来すと。そも人の性は、識らんことを求めてやまず。さとらざれば思ひ、思ひて尚暁らざれば、くりかへして、更に思ふ。かくて心中の霊機一たび動けば、社鵑の一声も、霊精の一喝となすべく、幽花の一枝も、天地の美妙を窺ふべし、翻 々 たる蝴蝶、溌 々 たる小魚、いずれかいみじき哲理を語らざる。猩 々 たる犬、啞 々 たる鵜、いづれかあやしき命数を示さざる。若し思を悟りなんには、宇宙の消息などか窺はれざらめやは。ここに至らば、いかなる楽も、これに易ふるに足らじ。若風のおとなひ、露のしづくも、いとあはれに、蟲の音うちしめりて、時雨のしとしとふりける比ほひ、静に古人の書をあさりて、わが惑を解かんなど、王公の楽にもかへられじ、或は参寸の舌の端に、天下の名だたる群才をおぢしめ、一枝の筆のさきに、千古未見ざる道理を明にするは、是ぞ彩華の発するなりける。其識力胸の裏に貯へらるるときは、乱れたる事わざを理むること、庖丁の手を解くがごとく、縺れたるすぢみちを示すこと、闇夜に燈をかかぐるごとしこれに達する道、いかにいふに、唯つとめて止まず、学びてをりふしに之を習ふにあるのみ。流れ行く小川を看よ。渓流の木の葉を潜り、石に砕け、流れに流れて、しばしもやまず、其始めは、いづこより来りて、いづこに行くにや、そを知れる人だになし。されど其いでて河となるに及びては、岬を噛み、厳を洗ひ、終に滄海にうち出て、天の涯を浸巣なる。学といふも亦しかなり。人間のはかなきすさびは、遂に其奥に到りがたく見ゆるものから、上は遠きいにしえより、代 々 のひじりの思いを凝らし、心を費やしし所を受けて、之を味ひ、之を嚼み倦まず厭はずして、其意をうかがはば、天地の玄理も暁りぬべく、宇宙の霊機も解かれぬべし。学びてをりふしに、之を習はば、亦説ばしからずやと古の聖の教へたまひしも誠にさることどかし。いひなせぞ、人の命はかげろふの如く、其のなすわざは空の如しと。若し深く思を潜め、心を盡し、おのが理性を養いて、工夫を学習の上に積まば、知らざる所を知り能はざる所を能くし、天地萬有の間に遊びて、心中の楽を穫、燦然たる光彩を高く庸俗の上に放ち、卓乎たる識見は青山の動かざるが如く、滄海の水の盡きざるが如けん、さらば人生短しといふとも、天地を極め、古今の亘るにあらずや。学習の力大なるというべきかな。

〈 全国五高会会報昭和52.9第10号より転載する 〉