肥後が生んだ教育界有数の人物であった。
熊本県菊池郡戸崎村の名門に生まれ、厳父は一忠といって、代議士を務めた、また漢学者、として聞こえ高い郷党の大先達であった。
武藤虎太は五高第1回の入学生でありまた第1回の卒業生であった。五高在学中から凡ての面において第一人者であった。
剛毅木訥の学風を造り上げる実際の仕事が第1回の入学生数十人の双肩にかかっていたことは言うまでもない、これらの人々は五高校風の生みの親ともいうべきでその、中心人物であった。
明治28年帝大国史科を特待生の成績で卒業、同窓生中第一番に教授になり母校の教授として就任した在職中朴訥勤勉振りを以て名声を謳われた.
その後二高教授に転任し、二高では教頭昇任まもなく居座ったまま・・校長へ敏腕を振るった。
その後欧米遍歴し、帰朝後金沢の四高校長、・・・ここでは10年在職した
母校五高の校長として赴任したのは昭和6年1月であった。前任の溝渕進馬校長とは同窓同学の間柄であった。
五高赴任直後(昭和6年11月)熊本地区で陸軍大演習が行われ、宮内庁、文部省と折衝、熊本へ帰る途中京都駅で腎臓炎になりそのまま、入院1ヶ月を経て退院帰熊して奉迎準備を整えた。11月15日の行幸の日天皇陛下から「健康はどうか、なお大切にするように」といわれ、この感激と光栄は武藤校長の生涯の思い出であった。
教育は職業意識を超越した道楽とも言うべきで高潔で指定の塾愛が学生からも愛された有縁であり、若い頃より漢学に造詣深く菊漂と号し謡曲の素人大家でもあったそうである
(参照 五高人物史)