案内の復習として五高記念館構内に残る歴史的記念物を紹介する。
写真上が五高時代の正門したが現在の正門 (通称 赤門)
正門重要文化財に指定されている通称赤門を入ると現在は舗装されているサイン・カーブを通ってラフカジイオ・ハーンの碑とレリーフを左手に見て、右側には竜南健児の像が五高時代の昔を思い出させる。
中門を隔てて熊本大学のシンボル重要文化財である五高記念館が見えて来る。
このサイン・カーブの両側とも五高時代は植物園であって薬園由来の碑がある。
ここでは植物園について紹介する
宝暦の改革を行った細川重孝(細川藩六代藩主)は領民が天寿を全うしないで、世を去るものが多いのを哀れんで、その苦悩と不幸を救済せんが為に、宝暦六年に竹部に薬草や薬木を植えて御薬園を創設した。これを「蕃滋園」と称して、薬物の研究や薬の製造を行った。現在の薬園町はその名称の名残である。
薬草園は廃藩置県に伴い、細川家からその栽殖の草木は全て藤井家に下賜された。明治20年の第五高等中学校の設立に際して、中門の左右に植物園が出来たが、それは主として明治二十三年「御薬園」の珍しい草や樹木、150種が保管者であった藤井家の当主歌子未亡人から寄贈されたもので、これが熊大理学部植物園の基礎担っている。
今尚五高中門付近ではその往時が偲ばれる樹木が残っている。
蕃滋園とはの説明では以下のような文書もあった。
龍田山に近い建部の地に宝暦6年(1756)に開かれた七ケ所の薬草園の一つである中央薬園として経営された。開園当初の薬園は500坪余であったが、天明年間には1485坪余となり隆盛を見ている、藩主の来園も数回かあった、薬園の管理は藤井家が当り外来の薬草、薬木を始め、藩内で集められた種類も数多く植えられていた。明治の廃藩置県で廃園になった。明治6年に作成された「蕃滋園植物目録」には829種が収められている。
植物園には漢文教授であった黒本植先生の「栽ゑておくかたみの小松色そへよ学びの園の文の林に」の碑文が刻まれている。そのほか第五高等学校跡の碑もある。
こうして記念館に到達するのであるがサインカーブの右側の通路には漱石の像と句碑が建っている。
記念館の右側の建物が重要文化財に指定されているかっての化学教室である。
記念館の裏に廻れば習学寮跡の碑が見られる。現在は文学部の庁舎が建ち並んでいる
記念館西側のグランド、これこそが「武夫原頭に草萌えて」と歌われている武夫原グラウンドである。
武夫原グラウンド南側の体育館の前には講道館柔道の創始者嘉納治五郎の碑が現代の若者を見守っている。
かっての五高の敷地を隅から隅まで散策すれば昔の五高時代の歴史を十分に窺い知れる事ができる。さらには構内の一番北側教育学部庁舎の裏には昭和6年に天皇の行幸があっているがこのとき五高の行幸を記念して行幸記念碑も建っている。これらの遺蹟のキャプションを読んで行くだけでも五高の歴史60年をを知る手がかりになるのではなかろうか・・(東孝治記)