五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

第13代校長 竹内良三郎について 

2011-10-21 03:55:35 | 五高の歴史

(前略)・・・・・・私は何とかして講義に新しい材料を加えたいと思い、大体一月に一回、たまには二回程木曜の夜行で熊本を出発、金曜の授業をサボり、授業のない土曜、日曜、月曜と四日を費やして上京し、当時の三越を始め珍しい、陳列場や、博物館などから新しい知識を仕入れては、月曜の夕方迄には熊本へ帰り、火曜からの授業に出ては其の新しく仕入れたデーターを講義に差し挟んで話して聞かせたものだ。その当時熊本から東京まで急行を利用して二十七時間かかったと思う。又いつも当時の二等(青切符)の寝台車を利用して行ったので確か片道二十五,六円かかった様に記憶している。

ところがある日、吉岡校長に校長室迄来るようにと呼び出された。「君はチョイチョイ授業をサボって東京へ行くそうだが、そんなに東京へ行きたければ、いっそう五高を退職して東京の学校へでも就職したら同ですか」と皮肉交じりで警告を発せられたので、私は此々、しかじかの目的で・・・」といい終わるか終わらぬうちに「田舎の高校生にそれまでして新知識を授ける必要はない。必要があれば学校の方から出張を命じるから、君が勝手にそんなことする必要はない」と一言のもとに反対されてしまったことを今でも残念に記憶している。・(後略)・・・・・・・・・・・ここからも吉岡校長はワンマンであったということがわかるのではなかろうか。

その後五高では仝12年6月4日生徒監に補され寮生監督になる。翌13年9月13日に再び生徒監を歴任した。この時代の習学寮納入業者と五高側の代表として契約書に調印している。昭和2年3月26日には東京帝国大学助教授として転出する。

 

昭和22年から仝23年5月まで官立埼玉師範学校長を勤めその後は昭和23年5月31日本島校長が辞職した後を踏襲して第十三代五高校長に就任した。

「五高70年史」備考から引用すると

学制改革に伴い本島校長の時代から話題になっていた後援会が漸くにその機運が熟して、23年10月10日の五高同窓会本部総会で『熊本大学法文学部理学部創設後援会』が成立し、勢よく発足したものの、財界の不振や『熊本大学』の名前が、何となく五高と縁遠く感ぜられたためか、実際は思うように挙らなかった。竹内は24年5月31日殆ど突如として信州大学文理学部長として転任する。

竹内良三郎については五高校長物語のエピソードを探したが在任期間が大正九年八月から昭和二年東大助教授として転出するまでの短い期間であったためかこれといったエピソードはみつからなかった。

 

学制改革により五高が将に閉校されんとする昭和二十四年二月当時の理科一の一組が発行した決別号(クラス雑誌)「高ぼくり」の巻頭に諸先生の言葉を集めてあるものの中の一つに嫌がらせという小品を表しているである。しかし戦後のドサクサの時期で三月には信州大学文理学部への転任があっているのでその短い在任期間に理一は良く竹内校長を摑まえて書かせたものである。その他には、後の熊本大学教授になった「万物は数なり」と佐々木四郎(理)「アカ」竹原東一〈教〉永松譲一〈法文〉の「フマ二オーラ」 藤井外與(薬)の「はなむけ」等が収められている。

 

いやがらせ     竹内良三郎

丹羽文雄の作品で『厭がらせの年齢』と云うのがある。そう長編ではないが可成りの傑作と云え得よう。一人の老婆が若い者が厭がることをズケ〃とうるさく云ったり手数をかけたりするので、せち辛い世の中であるだけに自分の手塩に掛けた孫娘たちに虐待され、孫娘たちの嫁入り先の家庭の間にお婆さんの世話を押し付けたとか押し付けられたとか色々のゴタゴタが起きるという様な筋である。

 此の頃は摘発とか告発とか不信任とか排斥とか色々なことが頻々として行われるようである。社会浄化と云う立派な動機から為されることも多々あり得ると思うが、随分民主主義とか社会浄化とかの仮面を被で成される所謂「いやがらせ」の為になさるゝことも少なくはない様である。人に厭がらせを云うて愉快がつたり人の困るのや混乱を楽しむと云った様な、いやな傾向が一つの流行の様に成って来ているきらいはないであろうか。

此のお婆さんももっとお婆さんらしく孫やひい孫を可愛がり愛想よくして居たら自分もそう邪険にはされず、又孫達の家庭に波瀾も引き起さないで済んだであろう。

どうも日本人は寛大な抱擁力が欠けている様だ。文化国家の国民、平和国家の国民乃至は国際人となるには此の抱擁力がなくては駄目なのではないか。

聖書のコリント前書第十三章に曰く『愛は寛容にして慈愛あり云々』と同胞愛にしろ人類愛にしろ愛こそ建議の底力でもあり潤滑油でもあるのだ。――終――          一月廿七日夜