小山先生の五高と近代日本の講座が行われたので聴きに行った。今朝はその話を自分流にまとめてみるのでそれを掲載する。
五高の校長は第4代中川元から5代櫻井房記に代わった。桜井の在任期間は明治33年4月から日露戦争を挟んで明治40年1月までである。明治27年の高等学校令により廃止された三高予科が復活し、五高は帝国大学への登竜門として、次第に学園の動揺は落ち着きを取り戻しつつあった。しかし明治35年には入試制度が「共通試験総合選抜」に変わり一高から回された都会風の生徒の流入があって築きあげられてきた、今までの独自の校風「剛毅木訥」に揺らぎも出るようになった.習学寮内では一高の寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」さえ唄われる有様であった。
櫻井校長は34年の入学者から新入生を対象に一方的に飲酒禁止を命じ、禁酒の宣誓書を書かせたので生徒の反発もあったが、スポーツや文学活動に情熱を燃やす生徒も多く寮生活を通じて心の触れ合い友情が生まれた。五高一部の卒業生・・法文系の卒業生が「東京大学より贈られる歌として「武夫原頭に」を贈ったのは日露戦争の最中であった。日露戦争の宣戦布告は2月10日でこの時期は世の中全体は日本の高揚に沸騰していた。今日は寮歌の誕生の経緯を俯瞰し青春群青とその後を覗いてみる。
五高寮歌「武夫原頭に」の誕生エピソード明治37年の秋この年卒業した一部生の同窓会で後藤文夫、池田英雄、鈴木安一、川久保修吉、岩松玄十、松永直吉等で30人ばかり集まり、作詞を惠利武に依頼した。後藤文夫の思い出では曲は同窓の鈴木安一が友人の上野音楽学校の学生に依頼して作ってもらったということであるが、その人の名前は不詳でまた大塚さんの文書では鈴木充形作曲を頼んだというが、五高に関しては記述はない
五高生に披露されたのは毎年開かれていた習学寮炊事記念日の明治38年2月15日に披露され寮生たちの心を魅了した。当時の卒業生や在校生の心情は入学試験制度が全国統一にかわり五高生の構成にも急激ないわゆる都会の気風が起き「嗚呼玉杯に花うけて」が広がりライバル校への対抗意識が一高に負けない誇りの持てる五高生の思いがあった。
日露戦争の宣戦布告は37年2月10日で自分たちの将来と国家の運命を重ね合わせることができる、そんな時代が寮歌を生む契機になっている。後藤文夫の思い出では、原案を同窓会で討議した結果、武夫原の思い出は龍南剛健の気概 済世興国の意気込みを盛り込んで最後に「見よ龍南に一道の、正気・・天地に漲る力,満を実施て・・ありてぞ日の本の青年の名に力あり,二十世紀に光あり」と歌いあげ、・・・こうして武夫原の歌が出来上がったのである。