五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

自治の海峡を渡りて・・バンカラ青春・熊本

2012-10-02 04:22:33 | 五高の歴史

9月28日の金曜より熊日主催で小山紘先生の「五高と近代日本」の第2弾が「大正デモクラシーと武夫原人脈」という表題で教養講座が行われている。早速に出席してメモを取ったが、ここでは阿蘇道場日誌を休んで小山先生のレジメと俺のメモを参考にし自分流にまとめてみたのでそれを掲載することにした。

小山先生の説明から、「自治の海峡を渡りて・・バンカラ青春・熊本」という変なタイトルになってしまったが、日本に大きな影響を与えた五高について取材の過程で一万田尚登に出会った。その時の書のコピー配布、この書は鮎が清流を切るように泳ぐという意味のようである。

明治天皇が明治45年7月30日午前零時43分63歳で崩御されると17分後には大正天皇が即位され、元号は明治から大正に変わった。

五高では第6代松浦寅三郎校長時代で、喪服に着替え、校長名で掲示板に「制服着用(靴黒色)し登校すべし」と張り紙で通知が出され、遥拝式を行った。水泳部は唐津で合宿をしていたが解散を命ぜられた。明治45年英法科卒の徳島定雄は東大受験のため東海道線で東京に向かっていたが午前4時ごろ車掌から明治天皇崩御のことが知らされた。これは24人が逮捕され12人が翌日死刑になった殺戮事件の大逆事件から1年半後のことであった。

明治天皇の大葬の式は大正元年9月13日午後11時から青山葬儀場で挙行された。五高では雨天体操場で午後11時から遥拝式を行った。翌14日から2ヶ日間の休校を行い寮では入寮式を行った。漱石の「こころ」では明治の殉死について世間一般の心情を表している。五高の修学旅行は一週間に亘る桃山御陵の参拝が行われている。9月30日の民放テレビ番組で[こころ]の映画が放映されていたが、漱石の心情は計りきれなく明治の殉死に追従して最後は主人公の自殺で終わるところばかりが印象に残った。

 国内の政治状況は、西園寺内閣が11月30日の閣議で朝鮮への2個師団増設案が否決されたことをきっかけに「大正政変」に発展した。西園寺内閣は倒れ桂内閣があとを継いだ。現代から見ると大正デモクラシーの時代と評価されるが、近代日本形成期の象徴国民の支柱となっていた明治天皇の崩御、大正天皇は病弱であって不安感は拭いきれない状態から大正は始まったのである。旧制高校の世界では、義務教育の普及、国民の高等教育への関心が高まり,学制改革の一環としてM44.7枢密院に提出された高等中学校令が46.4の発効寸前に奥田義人文相により実施が延期されたので、幻の高等中学校令と言われている。

 旧制高校生は帝国大学へのレールが敷かれる中、寮自治を掲げ青春時代を謳歌した。旧制高等学校研究家高橋左門氏は「明治30年代から大正前半期に至る時期が高等学校が大学予科一本の状態に於いて最も安定し、教育内容、気風と伝統形成の上で最も充実し・・古典的な完成を見せた時期等であった」(旧制高校物語÷・泰邦彦)と言っている。

 大喪の式は大正元年9月13日午後11時から青山葬儀場で挙行された。一方五高では雨天体操場で遥拝式があり鐘の音を合図に行われ翌14日から2日間休校になった。寮では当日新入生の入寮式が行われた。桃山参拝のための修学旅行は10月12日から1週間、生徒たちは10月14日午前7時に京都を出て桃山御陵に上り午前9時から一同拝礼し、このあと泣きながら同地を去った。このことは大正元年12月20日発行龍南会雑誌,雑報に「思い出の記」として詳しく掲載されている。続きは明日、書くことにする。