五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

「五高と近代日本」の第2弾「大正デモクラシーと武夫原人脈」教養講座から

2012-10-03 04:12:05 | 五高の歴史

熊日主催で小山紘先生の「五高と近代日本」の第2弾が「大正デモクラシーと武夫原人脈」という表題で教養講座が行われている。早速に出席してメモを取ったがここでは小山先生のレジメと俺のメモを参考にし自分流にまとめてみた。昨日の続き

旧制高校が最も安定した状況というのは、どういうことか・・

旧制高等学校が明治30年代から大正前半にかけが最も充実した時期である。古典的完成を見たとは?寮自治が完成した時期である。M19、4帝国大学来、中学校令、そして一高における木下広次の籠城演説から始まり、何れも熊本人脈が日本の教育制度を蹂躙していた、そして明治27年6月の井上毅高等学校令、三高予科の廃止、造士館の廃止・・五高はかつての熊本人脈を通じて保たれていった。この改革は制度と実態にずれが生じて、旧制高等学校は大学予備門の道を歩き従前の高等中学を高等学校に改称し専門学科を教授するところとし大学入学者のために五高は一高のライバル校として明治三十三年から大正六年にはナンバースクールが形成されていき六高、七高、八高が創立され三高法学部、工学部は廃止され五高工学部は明治39高等工業になった。医学部は専門学校になった。

明治はナンバースクールの時代で寮自治は旧制高校の中心生命

大半の生徒は一高に見られるように日清、日露戦争以後の国家主義これは運動部を中心とする体制イデオロギー派と個人主義の意見対立の中,寮自治の在り方や校風論議を深めバンカラ高校生活を謳歌していた。

五高では竜南の風雲児江口渙の影響が大で五高3年の時には理想主義に傾倒し紫溟吟社に入会している校風刷新の改革論が高まり伝統の校風に懐疑の声も出たがm45・5には寮の自炊制度が廃止され賄い征伐の悪臭が復活した。

この時期寮内の不潔さが目立った。しかし生徒の意気は盛んで次第に学園の落ち着きは取り戻し剛毅木訥の校風が定着していった。また学校側も生徒たちへの寮自治に応え一緒になって寮自治のあり方を研究している。

江口渙とは・・四高に進学する父と進路をめぐって対立し退学する、五高に入り直す。俳句に没頭し、河東癖五郎に認められる。帝大英文科に進学。この年、雑誌『スバル』に短編『かかり船』を発表し、作家として認められる。佐藤春夫・広津和郎・宇野浩二たちとの交友。また、漱石の知遇をうける、漱石山房をしばしば訪れる。さらに芥川龍之介との交流も始まる。漱石の葬儀の際には、芥川と共に受付を行う。北川千代と結婚するもその後離婚、大学も中退する。プロレタリア文学の大御所・寮に剛毅木訥の墓。自給制度の廃止、バンカラ高校生活は熊本で育成された。・・新入生の入寮式・剛毅木訥は生徒監の重要性、自治の在り方は間違いなかったようであるが、生徒は校風に対する懐疑を持つようになった。

校風への関心が高まった背景には試験制度の変更もある。明治35年から行われていた共通試験総合選抜制度に変わり、41年からは共通試験単独選抜となった。熊中、済々黌から五高へ剛毅木訥の校風に憧れた生徒たちが集まってきた。その結果五高開校以来築き上げてきた九州人魂の剛毅木訥、質実剛健への校風の回帰が進んだ。地域社会は生徒たちに寛容であり将来の国家エリートに期待するとともに、何時か地方のために役たつ存在になる思いがあった。

ナンバースクールの旧制高校文化が、一高の自治、二高の雄大剛健、三高自由、四高の超然、そして五高の剛毅木訥、いずれも少しずつ違ってはいたが、バンカラ、敝衣破帽、白線帽、黒マント、ストーム、コンパ、寮雨、記念祭と共通の風俗が定着して行った。

習学寮を襲った伝染病は5人の生徒監が骨身を削って奮闘した。大正2年の2月~3月頃30余人のチフス患者が出て10人死亡、2・27~3・2までの臨時休校で寮は閉鎖、郊外寮の設置、等々の話のため学内は騒然となった瑞邦館で学校当局を糾弾する。4月14日武夫原で追悼慰霊祭の挙行、10.23松浦校長の引責辞任、文部省督学官の吉岡郷甫校長就任しかし吉岡校長の時代になって10月から11月にかけてパラチフス、赤痢が発生し南・北寮を解体焼却処分した。

その結果試験の延期・・習学寮は改築されT4、第2、第3の二寮を新築今までの板敷は畳敷きになった。寝室16人一組が一室の定員が2~3人になった。自治の海峡は渡ったがと喜んだが、伝染病発生当時、寮生たちに無念でならないことはT2、9に寮自治を確立したにも拘わらず2度目の伝染病の発生で寮が閉鎖に追い込まれたことであった。2人の生徒が死亡している。習学寮史には細則案の第1条で「寮生は自治共同を以て寮内の秩序を保ち風紀を維持すべしと有り意気込みが記述されているが・・・・・。五高の習学寮は今日自治の海峡を渡って一生新王国を立てしむ。寮内の制度は自分たちで委ねる。自治の確立、寮での出入り口に赤、白の名刹を掲げ生徒は出るときは名刹を裏に帰った時には表を表示する。・・全て生徒自身の責任であると自己を確立させている。しかし吉岡校長の時代になって10月から11月にかけてパラチフス、赤痢が発生し自治の日は掲げたものの試練の日が続くことになる

 卒業生の思い出は「古き良き五高時代に尽きる」これは帝国大学への道は保証されていたし落第賛歌の」時代であった。大野熊雄の例サーベルを掛けたい、兵学校へ行けないなら警視になる。大麻唯男も同様で・熊本パーテイの存在、五高生は国家のエリートとして地域の期待を背負い暖かく育てられた。寮、下宿宅、友人宅で人生を語り合う。新思想を持ち込む教師のほか教科書を離れて面白い談義をして生徒を喜ばせた。

大正四年卒業組大学予科24回は243名・・

第1部英法、政治、経済,商科・63名英文科・・28名,独法、政治科32名・・・第2部工科・・58名、  農科16名

第3部医科・・40名

今中次麿・・・大正デモクラシーの前夜、花菱会に所属,大正、昭和時代の政治学者

山川強四郎‥ピーゴト時代の五高生活 メニエル病の世界的権威

 一万田尚登・・日銀総裁、天皇 大蔵大臣、対日講和会議全権委員

木下郁衆院議員2期、大分県知事、大分市長、

沖蔵・・弁護士

立花定・・弁護士    上記4名は高校・大学の親友

大田清蔵・・東邦生命社長、高森良人・・五高教授・

3年卒・・大坪俊次郎・三井銀行頭取、林田正治・熊本市長、網島正興・代議士、弁護士、佐藤久喜、三井金属社長、

5年卒・・熊谷栄治・住友信託銀行頭取、平島俊明・三井物産社長、松村道詳・日東製粉社長、前田一・日本経営者団体専務理事、石坂繁・代議士、熊本市長、山崎巌・代議士、文部大臣

旧制高校は、明治41年に設立された八高を最後にナンバースクールの誕生はなくなった。国家有為の人材育成を目指して発足した五高は。3000余人の明治の学生を出し大正時代に向けて新しい出発を始めていた。そして大正3年8月の第一次世界大戦の勃発後の大戦景気を受けて大正7年、新高等学校令が交付され全国に地名高が続々誕生した。五高は、ナンバースクールの気概と誇りを持ちながら、人材を輩出して行った。