戦時体制の華やかりし昭和十八年の正月三ヶ日の様子を推測する。二十一世紀の今日の正月の神社へ初詣の参拝はマスコミの報道も多くニュースバリュウ高く、各地の神社は初詣の人出の多さを競っているようにさえ感じられるが、六十六年の昔は神社への人出の多さを報道するマスコミもなく、お宮参りもひっそりとしていたようだ。
昭和十八年
一月一日
上野氏と浜田・・この時の日誌の作者とみられる。・・・とのみにて正月を向う。国旗掲揚、終りし時、根子岳よりさし上る初日の出を拝す、宮地の官幣大社阿蘇神社に参拝す。 現代では阿蘇神社に初詣する人はとても多い。
一月二日 快晴 寒風強し
本日上野氏退場、後は浜田一人、やや淋し。
一月三日
明日より、内牧町民の練成会がこの道場で行われるので、五高生も五名(高橋、高江場、井上(宏)、副島、浜田)も之に加はることになり、夕方来場少々の準備を行う。夕食後池田一幸先生を取り囲んで、初の四方山の話より次第に自然科学、天文学のお話を伺う。後、井上、高橋と浜田と神・霊のことに関して大激論となる。五高生のひさし振りの大論争に池田先生もよろこばれる。午後十一時論を一応止めて寝につく
現代は食べ物も豊富で種々雑多である。毎日の食事にしても牛乳にパン類、麺類等を主食する人も多いようで、そのため日本人の主食である米食は敬遠されがちである。一日に一回も米は食べないと言う人もあるようで、しかし最近は白米食にかわり玄米食と言うのが盛んである、自然食ブームからか、世の中には肥満の人も多いためかメタボの追放といって、各地に玄米食食堂も設置されている。そのためか玄米菜食を実践している人も多いという。この昭和十八年一月四日の日誌には、飯島先生の奥様が阿蘇道場においでになって玄米食を炊き出しをしてくださったとの事、奥様は玄米食十五年来の大家であり、炊き出しして貰いおいしかったと云うこと等が強調されているのは、飯島教授の奥様は昭和の初期から、玄米食を実践されていたと言うことであり、現在と違って玄米食を実践する人も少なく珍しかったと言うことではあるまいか!
一月四日
晴れるも寒風清、最近でもっとも寒しと、午前七時内牧町民、大挙して道場に乗り込むと共に掃除、朝礼、国旗掲揚、坐禅を行う。本朝食は、玄米の粥、誰しも初めての事とて少し平口していたらしい。午前中飯島教授の「十二時法語」より種々の生活に対する心構えについてお話。昼食は朝の玄米粥の残り。午後は道普請、大いに仕事はかどる。流石はお手のもの、午後には内牧の京大火山温泉研究所の灘波さんより火山に関するお話を伺う。難解にて少々困る。研究に熱心なることに対して皆一同頭が下がる。
尚灘波さんは教育、宗教、にも関心を以っておられ種々お話さる。夕食に又玄米食、飯島教授の奥様、態々道場にお越しになり、玄米の炊き出しをさる。奥様十五年に渡る玄米食の大家たるだけある。美味しく、皆玄米食をやらんと意気込む。夜町民五高生を合わしての座談会、真摯な、真面目に生きようとする決意をかためる、十一時半就寝。。
一月五日 昨夜猛雪、四面白衣
例の如く掃除神祈、国旗掲揚、坐禅、朝食昨夜と同じく玄米粥、少休の後、校長先生の御講話、例の如く境涯を練る。腹を作ることの肝要なるを力説する、
即ち道場は知識を受ける迄に非ず、境涯を練る迄になること即ち声を観ること、ーーー心眼を開くこと、即ち道場の目的なること。坐禅とは坐禅することに非ず。お経を読むことにも非ず。唯自己の仕事になりきること、地獄、極楽は自己の中に実在すること。歴史を超越した極楽に住すべきこと。換言すれば自己が仏、神になった気持ちで生活に精進することが最も肝要なることを力説さる。損徳を批判の基準におかず、恥を考えて行動すること、即ち大我に成仏しきって行動することを説駆る。唯、我等感ずるのみ、精進あるのみ、正午昼食を戴き、町民の方々に今度の道場に於ける練成会に対する感想文を書いて戴き一同下山さる。高橋、高江場、井上、二時の汽車にて帰熊、飯島先生後にのこらる。
近頃風邪の症状が取れなく俺自身の体調がどうもあまり芳しくない。パソコンとのにらめっこもあまりよくないようだ。すでに2月になろうとしているが風邪の症状がすっきりしない、このブログをしばらく休載することにした