昭和十七年の文二甲二組の道場行きはクラス全員ではなくして希望者十数名と言う事であろうか?筆者のサインもないので誰が書いたのか判らないが、五高の阿蘇道場はこんなところで、こんなことを遣っていたと言うことだけはわかるのではあるまいかと思う
この昭和17年の時期の世の中は若い男子は全ての人が召集に取られて、兵隊になっている。そのためi田舎においても百姓する人は婦女子だけになっている。道場に来る五高生の奉仕作業は地域住民にとってはありがたいものであったようである。
十月二十五日 日曜 文二甲二組。
机に向うと窓外の景色は正しく世界一だ、少なくとも東洋一と言っても過言ではなかろう。東洋一の阿蘇火山の真只中に、最早四回の修養道場行に参加した。しかし組として一緒に来たのは今回が始めてだ。十月末とはいえ阿蘇峡は既に冬景色に包まれている。日向のみが秋らしい微候を示している。
そろそろ町へ出て、自発的に仕事を求める連中が出発しかける、私にして見れば、仕事の所在の中には甚だ危ないものがあることを恐れる。
道場に来てすべてのものが、一心同体として、掃除に、奉仕に、又一般の談話の中に、どうしても行動し得ないことを痛感する。我々は余りにも早合点と詰らぬ自惚れに走って、他人の弱い心、悲しい心に痛烈な打撃を与えることを察した人、すべて規則のままに、道徳のままに、亦どんな権威なき命令と雖も少なくとも命令ならば、その命令そのままに、順々として行動することの重大性を失いがちである。
実社会に棲むには恐らくこんな規則のままに、命令のままに、正直正銘に托することは不可能であろう。しかしこの公共心なくては、人間社会の発展する組織と福祉をも希望し得ないであろう。現今我々は余りにも軽率に、全てを早合点して人情の機微を忘れた我々が、往々にして感ずる冷たい暗い学校生活というものは畢竟、余りに「自己に緊なり」と走り過ぎた人情の忘却によるものではなかろうか、すべての我々は共同生活、否、二人の生活の中にあっても、人間は辛抱がなければ破壊の一途を辿らずには置かない筈だ。我々はもっと人の弱さを知って人生の寂しさを、共に味わい、誰にでも喜んで否辛抱いて、奉仕、或は奉仕するの、覚悟と気持を馴致しなければならないと思う。
しかし我々は常にこんな所謂小さい心では暗い一方で、大きい世界を呑吐する希望に欠けると云えよう。
我が阿蘇道場のこと、自己を滅却すると共に世界に冠絶する大阿蘇、火の噴煙と、大阿蘇境に凛呼として漲る、湧々として書きせざる気配に触れたとする一大修養と一大希望の聖地ではなかろうか。薄きは秋風に磨き、朝霧立つ、外輪の山々は今や我等が精潢するロースト、ホライズンのカラコルムの情景を様々に、連想せしめるではないか。高岳も、中岳も、根子も、杵島も、鳥帽子も、阿蘇の五岳は折から晴れんとする朝霧に、全貌を露出した。白い秋の雲、秋、煙、薄き、阿蘇、嗚呼、我等は。
十月二十四日 土曜 曇
四時二十分到着、直ちに国旗掲揚、清掃、六時半坐禅、夕食、夕食後、火櫃を囲んで雑談及び組会、十時過就寝、我等、十数名、風呂を沸かして就寝前の快い温りを感じた。
十月二十五日 日曜 快晴六時起床、
阿蘇は早朝より、全景を明瞭に顕示す、あさの坐禅は全身の温もりを増す。八時朝食終わり、道場に残って作業に従事する者と、希望により道場外に出て、自ら仕事を求めて奉仕せんとするもの、二隊に分れ、後者は八時半前、吾は九時夫々出発及び開始す。道場にては芋掘り道場外にて奉仕したものは稲刈り、旅館等の清掃、郵便局の整備等に各、その本分を尽して頑張った由、十二時半、愈々熊本に帰らんと用意す、阿蘇の空は晴れる。