観葉植物を室内に入れて温度調節をしてやっているが今朝は俺の部屋で25度を超えている
ひんやりと肌を刺す感じかと思えば一寸暑いなあと感じるこの頃である。昨日は週一で五高記念館に出た。
昨日の転載部分を照会する。
一月一日 金 曇
新年の祝賀式 午前九時より瑞邦館に於いて行う。旧済美館工事中のため
一月四日 月 晴
御用始 元教授白川継詔氏来校
一月五日 火 風雨後晴
新年宴会
一月八日 金 曇
今日より第三学期授業始まる
一月九日 土 曇
文三甲二吉村才八に対し校長より訓戒を加える
一月十一日 月 晴
柔剣道寒稽古本日より二週間行う
旧制第五高等学校の大正十五年の一月の様子である。一月五日は庶務主催で新年宴会
が実施されている。これなど後の世の官公庁の一月四日御用始の式の後お神酒一杯と
いう事で飲むことが中心になってしまったことの起源であろう。
以上のようなことが日誌には記されてあるがこの時代は溝淵校長の時代で上京の記事
は矢鱈に多い。これも高等学校長の中で溝淵校長は日本の高等学校長の指導的役割を
した名校長であったという事の証拠ではなかろうか。
☆ここで参考として小山先生の「明治と五高」の講座を参考にして・・・溝淵校長について、明治三十二年九月から三年間欧州に留学し、学者になるためにイエナ大学へ入る.同行した大月次郎の留学の思い出として明治三十九年九月横浜を出港して香港経由でゼノアに到着するまで五〇日間を要した。嫁さんの棚橋駒衛の話ではイエナ大学ではラインという教授に師事し大学の絵の入ったハガキで近況を伝えてきている。帰国後は四高校長に就任し大正10年10月五高へ赴任している。
四高では溝淵の転勤に生徒たちの猛烈な留任運動が起こっている。四高跡には遺徳を忍んだ銅像が残っている。現在のものは戦時中供出されたので、戦後再興されたものである。
所謂大正から昭和にかけての旧制高校のモデル校長で熟考断行の人であった。友人が居れば、例えば熊本において高知のグループ等の集合では山崎正薫医大校長,由井質五高教授等々の会合では、比喩的な言葉で話している。
「これから少し歩きましょうか」と話しかけ散歩をしながら話すことを日常としていた。茶席では番茶を愛用し、掲示された高知のドット波の絵画を無心したこともある。
信仰心は無信仰であったが弾の話では長女トミ子が女高師の在学中に不治の病に罹っとき三高の栗石教授にキリスト教による安らぎを相談している。死に望んでは命名の床で昏睡に陥った時奥さんに対する遺言状を胸に抱いていた。恰も真直ぐな鉄道線路のようにナンバースクールを代表する校長であった。
それでは溝渕進馬校長は大正七年の高等学校令をどう見ていたか、
高等学校令の第一条では「高等学校は男子の高等普通教育を完成するを目的とし、特に国民道徳の充実に力むべきものとす 」それまでは大学予科と位置づけられていた。完成教育か?予備教育か?
溝渕の考え方は高等学校教育は大学へ行くための予備教育である。高等学校の教育は世の中に出て役に立つか?語学に力を入れ高等普通教育の完成?国家有為の人材つくりで国の棟梁たるべき指導者の育成という思想が込められている。
高等学校の生徒は気位が高く抱負も大きく小成に案ずることを見座さないとも主張し卒業後は直ちに実社会で働くことを作ることは適しないとしている。高等学校令の改正で中産階級も受験の機会が増え受験戦争の激化。高等学校を卒業した者は必ず帝国大学へ入学繋がっている心構えを手中に握れと、
具対的な展開としては、
1・生徒学校間の意志の疎通を図った。 2・体育活動を奨励した。生徒を呼ぶ時もいつも固有名詞で呼んでいた。結局各生徒の心を掴んでいたのである。学校対抗戦には必ず観戦し応援していた。
人間を作る校長方針では生徒課にポリシーを確立していた。
溝淵進馬が影響を与えた校長連には八高の初代校長大島義脩、佐賀高校の生駒萬次初代校長、福岡高校秋吉治、山口高校新保寅次、新潟高校八田三喜、そして松山高校初代の由比質等があった。
理科の生徒と文科の生徒を同室にして思想善導の教育を行い各自に世界地図を貼らせて世界に眼を向けるようにと言い共産思想にはすべて反対した。高等教育界の大御所的存在であった。
溝渕には多彩な人脈があって文部省でも一目於いていた。高等学校長は地方の師団長より格が高く要するに熊本発の文化人脈であった。この時期は日本がファシズムの準備期間に入っている。演説の草稿が残っているが教育にも王者覇者の教育があって徳をもって生徒を率いるか規則と罰則で生徒を締め付けるか民主的な傾向の今日覇者の教育で学校は円くおさまるものではない。典型的な名校長溝淵にとって越えなければならないハードルは段々と高くなっていく。
ひんやりと肌を刺す感じかと思えば一寸暑いなあと感じるこの頃である。昨日は週一で五高記念館に出た。
昨日の転載部分を照会する。
一月一日 金 曇
新年の祝賀式 午前九時より瑞邦館に於いて行う。旧済美館工事中のため
一月四日 月 晴
御用始 元教授白川継詔氏来校
一月五日 火 風雨後晴
新年宴会
一月八日 金 曇
今日より第三学期授業始まる
一月九日 土 曇
文三甲二吉村才八に対し校長より訓戒を加える
一月十一日 月 晴
柔剣道寒稽古本日より二週間行う
旧制第五高等学校の大正十五年の一月の様子である。一月五日は庶務主催で新年宴会
が実施されている。これなど後の世の官公庁の一月四日御用始の式の後お神酒一杯と
いう事で飲むことが中心になってしまったことの起源であろう。
以上のようなことが日誌には記されてあるがこの時代は溝淵校長の時代で上京の記事
は矢鱈に多い。これも高等学校長の中で溝淵校長は日本の高等学校長の指導的役割を
した名校長であったという事の証拠ではなかろうか。
☆ここで参考として小山先生の「明治と五高」の講座を参考にして・・・溝淵校長について、明治三十二年九月から三年間欧州に留学し、学者になるためにイエナ大学へ入る.同行した大月次郎の留学の思い出として明治三十九年九月横浜を出港して香港経由でゼノアに到着するまで五〇日間を要した。嫁さんの棚橋駒衛の話ではイエナ大学ではラインという教授に師事し大学の絵の入ったハガキで近況を伝えてきている。帰国後は四高校長に就任し大正10年10月五高へ赴任している。
四高では溝淵の転勤に生徒たちの猛烈な留任運動が起こっている。四高跡には遺徳を忍んだ銅像が残っている。現在のものは戦時中供出されたので、戦後再興されたものである。
所謂大正から昭和にかけての旧制高校のモデル校長で熟考断行の人であった。友人が居れば、例えば熊本において高知のグループ等の集合では山崎正薫医大校長,由井質五高教授等々の会合では、比喩的な言葉で話している。
「これから少し歩きましょうか」と話しかけ散歩をしながら話すことを日常としていた。茶席では番茶を愛用し、掲示された高知のドット波の絵画を無心したこともある。
信仰心は無信仰であったが弾の話では長女トミ子が女高師の在学中に不治の病に罹っとき三高の栗石教授にキリスト教による安らぎを相談している。死に望んでは命名の床で昏睡に陥った時奥さんに対する遺言状を胸に抱いていた。恰も真直ぐな鉄道線路のようにナンバースクールを代表する校長であった。
それでは溝渕進馬校長は大正七年の高等学校令をどう見ていたか、
高等学校令の第一条では「高等学校は男子の高等普通教育を完成するを目的とし、特に国民道徳の充実に力むべきものとす 」それまでは大学予科と位置づけられていた。完成教育か?予備教育か?
溝渕の考え方は高等学校教育は大学へ行くための予備教育である。高等学校の教育は世の中に出て役に立つか?語学に力を入れ高等普通教育の完成?国家有為の人材つくりで国の棟梁たるべき指導者の育成という思想が込められている。
高等学校の生徒は気位が高く抱負も大きく小成に案ずることを見座さないとも主張し卒業後は直ちに実社会で働くことを作ることは適しないとしている。高等学校令の改正で中産階級も受験の機会が増え受験戦争の激化。高等学校を卒業した者は必ず帝国大学へ入学繋がっている心構えを手中に握れと、
具対的な展開としては、
1・生徒学校間の意志の疎通を図った。 2・体育活動を奨励した。生徒を呼ぶ時もいつも固有名詞で呼んでいた。結局各生徒の心を掴んでいたのである。学校対抗戦には必ず観戦し応援していた。
人間を作る校長方針では生徒課にポリシーを確立していた。
溝淵進馬が影響を与えた校長連には八高の初代校長大島義脩、佐賀高校の生駒萬次初代校長、福岡高校秋吉治、山口高校新保寅次、新潟高校八田三喜、そして松山高校初代の由比質等があった。
理科の生徒と文科の生徒を同室にして思想善導の教育を行い各自に世界地図を貼らせて世界に眼を向けるようにと言い共産思想にはすべて反対した。高等教育界の大御所的存在であった。
溝渕には多彩な人脈があって文部省でも一目於いていた。高等学校長は地方の師団長より格が高く要するに熊本発の文化人脈であった。この時期は日本がファシズムの準備期間に入っている。演説の草稿が残っているが教育にも王者覇者の教育があって徳をもって生徒を率いるか規則と罰則で生徒を締め付けるか民主的な傾向の今日覇者の教育で学校は円くおさまるものではない。典型的な名校長溝淵にとって越えなければならないハードルは段々と高くなっていく。