昭和6年9月18日に満州事変が勃発した後に、第五高等学校では、昭和天皇の行幸、同盟休校事件と言う二つの出来事があった。
天皇は九州地区陸軍大演習ご統監のため六年十一月十一日に来熊され、五日目の十五日に五高を視察された。皇太子時代の大正九年にも来校されており、五高にとっては二度目の光栄であった。
同盟休校事件とは、昭和七年三月二日に龍南会総務が、学校側の許可を受けずに無断で配布した雑報をめぐり、二人の総務が退学処分を受けたことから、同情した一・二年生が三日から十二日までの十一日間習学寮に立て籠もった事件である。
昭和七年の同盟休校事件は三月二日 総務部が学校当局の許可なくして謄写版印刷「雑報」第一号を全生徒に配布したことに端を発したものである。総務委員服部弘文(文科二年甲)丸田国雄(理科二年甲)の両名が教務室で強制的に武藤校長、中山教務主任、白川生徒監から退学届けを提出させられた。
この学校当局の強権発動に対し二年生が妙体寺で臨時生徒大会を開催して代表数名が、校長に対し退学理由を尋ね生徒に其の報告を行った。三日午前にはクラス代表等十名を選び服部、丸田の両者の退学取消を嘆願したが入れられず二年生三百余名は「両君の復学が許されないときは四日から開始される試験をボイコットする」と絶叫して習学寮に籠城したものである。
この事件の為習学寮は目も当てられないほどに荒れ果てた。
総代浦野正孝の言を引用して結果の叙述にかえる。
「我ら自ら大罪を犯しつつ、今ここに喋る資格はないのであるが、吾人はこの経験と感慨を述べずして又誰か記さんや厚顔を顧みず期す次第、即ち、かかる場合総代はまず時間の余裕の存する限り寮生の意向を糺して自治体たる観念を忘れず。その意向にこれを処置すべきであった。その真相を突き止め是に不純な点があれば一生徒として真相を糺して同盟休校を未然に防ぎ得ればそれが最良であると信ずる。今回の事件も吾々が顔を出した時には最早動かすべき状態であり興奮している学生は退学の責任について考える者は一人もなく又これを話し合うにも耳が聞こえない状態であった。もっと冷静に考えておればここに至らず済んだことであったと思う」と
天皇は九州地区陸軍大演習ご統監のため六年十一月十一日に来熊され、五日目の十五日に五高を視察された。皇太子時代の大正九年にも来校されており、五高にとっては二度目の光栄であった。
同盟休校事件とは、昭和七年三月二日に龍南会総務が、学校側の許可を受けずに無断で配布した雑報をめぐり、二人の総務が退学処分を受けたことから、同情した一・二年生が三日から十二日までの十一日間習学寮に立て籠もった事件である。
昭和七年の同盟休校事件は三月二日 総務部が学校当局の許可なくして謄写版印刷「雑報」第一号を全生徒に配布したことに端を発したものである。総務委員服部弘文(文科二年甲)丸田国雄(理科二年甲)の両名が教務室で強制的に武藤校長、中山教務主任、白川生徒監から退学届けを提出させられた。
この学校当局の強権発動に対し二年生が妙体寺で臨時生徒大会を開催して代表数名が、校長に対し退学理由を尋ね生徒に其の報告を行った。三日午前にはクラス代表等十名を選び服部、丸田の両者の退学取消を嘆願したが入れられず二年生三百余名は「両君の復学が許されないときは四日から開始される試験をボイコットする」と絶叫して習学寮に籠城したものである。
この事件の為習学寮は目も当てられないほどに荒れ果てた。
総代浦野正孝の言を引用して結果の叙述にかえる。
「我ら自ら大罪を犯しつつ、今ここに喋る資格はないのであるが、吾人はこの経験と感慨を述べずして又誰か記さんや厚顔を顧みず期す次第、即ち、かかる場合総代はまず時間の余裕の存する限り寮生の意向を糺して自治体たる観念を忘れず。その意向にこれを処置すべきであった。その真相を突き止め是に不純な点があれば一生徒として真相を糺して同盟休校を未然に防ぎ得ればそれが最良であると信ずる。今回の事件も吾々が顔を出した時には最早動かすべき状態であり興奮している学生は退学の責任について考える者は一人もなく又これを話し合うにも耳が聞こえない状態であった。もっと冷静に考えておればここに至らず済んだことであったと思う」と