今朝の緊急自動車のサイレンの音は4時30分であったので既に起き上がり朝食の準備をしているところであまり迷惑しなかった。今日は特に俺の予定はないので一日暇である。
火曜日は週一の五高記念館へ出た。出れば出たで何かバタバタして落着けない。上の郷の出発が七時二十九分の都市バスであるのでこのバスは蓮台寺橋を渡り熊本駅を経由して交通センター行きである。そのためセンターで大津行に乗り換え黒髪へ行くのである。
蓮台寺または町口神社前からこのバスに乗車する御仁が居る。大学前で下車して工学部の裏門から入っていく。工学部のラグランチンか、教育職であればこんなに早い八時三〇分には出て来ないと思われるが?民営化後の大学の職員体制も変わってしまってわかりゃしない。教育職、いわゆる教官であればまだ冬休み中である。その証拠として伊藤館長、岩崎助教ともども今年はまだ顔を見ていない.
これからは五高の歴史を振り返って見る。
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昭和十三年五月十六日図書、弁論部合同主催座談会開催その時の弁論部記録から引用「吾々の言う超越とは仙人生活ではあるまい。吾々が社会の一員である限り社会を離れて生活することは不可能であるとの意味からしても、ロビンソンクルーソー式の生活を超越とは言い得ない。
吾々は日露戦争当時にとった一学者の態度を非とするものである。又順応とは世流の自己の意を屈して押し流されるのではない。社会に徒に媚びるを吾々は潔としない。無批判に世潮に付和雷同式態度を採ることも排斥されねばならぬ。現今社会の状態は余りにも切実に吾々に迫ってくる。理想と現実の葛藤確執もここに生ずるのである。かかるときに於いて吾々はまじめな態度をもって現実を理解し又それを客観的に眺め批判し、順応して超越の総合の一境地、真の高校生活に実現に努力を惜しんではたまらない。」
全体主義と個人主義について・・同じ記録から引用・・「ジャーナリズムは頻々として個人主義崩壊没落を告げ、全体主義の勃興隆盛を報じている。この両者は常に対照的立場に立ち密接不離れな関係を保持している。まず全体主義とファシズムとの異同論が暫し行われた。個人主義も数人の人たちより相当強く主張され自らの立場からそれを解釈して譲る処がなかったのは一種の頼もしさを感じた。中には「大学」の「修身斉家治国平天下」の思想を以って個と全との関係を説明する者もあった。全体主義と雖も個人を全然無視するのではない。
ここに小山先生の意見は「人間は各々人により性質が異なるが、その性質にも特殊的なものと共通的なものを含有している。その特殊性を生かした場合が個人主義となり、普遍性が強調されるとき全体主義となる。しかしいずれに重きをおくも比較的の問題であり、目的は同一なるも手段方法が異なっているにすぎぬ」と。
五高生の考えは深刻である。現代の高校から大学生活はもっと楽観的で、なるようにしかならないとの考えが多いようである。世間がそのように仕向けていたのであろうか?
火曜日は週一の五高記念館へ出た。出れば出たで何かバタバタして落着けない。上の郷の出発が七時二十九分の都市バスであるのでこのバスは蓮台寺橋を渡り熊本駅を経由して交通センター行きである。そのためセンターで大津行に乗り換え黒髪へ行くのである。
蓮台寺または町口神社前からこのバスに乗車する御仁が居る。大学前で下車して工学部の裏門から入っていく。工学部のラグランチンか、教育職であればこんなに早い八時三〇分には出て来ないと思われるが?民営化後の大学の職員体制も変わってしまってわかりゃしない。教育職、いわゆる教官であればまだ冬休み中である。その証拠として伊藤館長、岩崎助教ともども今年はまだ顔を見ていない.
これからは五高の歴史を振り返って見る。
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昭和十三年五月十六日図書、弁論部合同主催座談会開催その時の弁論部記録から引用「吾々の言う超越とは仙人生活ではあるまい。吾々が社会の一員である限り社会を離れて生活することは不可能であるとの意味からしても、ロビンソンクルーソー式の生活を超越とは言い得ない。
吾々は日露戦争当時にとった一学者の態度を非とするものである。又順応とは世流の自己の意を屈して押し流されるのではない。社会に徒に媚びるを吾々は潔としない。無批判に世潮に付和雷同式態度を採ることも排斥されねばならぬ。現今社会の状態は余りにも切実に吾々に迫ってくる。理想と現実の葛藤確執もここに生ずるのである。かかるときに於いて吾々はまじめな態度をもって現実を理解し又それを客観的に眺め批判し、順応して超越の総合の一境地、真の高校生活に実現に努力を惜しんではたまらない。」
全体主義と個人主義について・・同じ記録から引用・・「ジャーナリズムは頻々として個人主義崩壊没落を告げ、全体主義の勃興隆盛を報じている。この両者は常に対照的立場に立ち密接不離れな関係を保持している。まず全体主義とファシズムとの異同論が暫し行われた。個人主義も数人の人たちより相当強く主張され自らの立場からそれを解釈して譲る処がなかったのは一種の頼もしさを感じた。中には「大学」の「修身斉家治国平天下」の思想を以って個と全との関係を説明する者もあった。全体主義と雖も個人を全然無視するのではない。
ここに小山先生の意見は「人間は各々人により性質が異なるが、その性質にも特殊的なものと共通的なものを含有している。その特殊性を生かした場合が個人主義となり、普遍性が強調されるとき全体主義となる。しかしいずれに重きをおくも比較的の問題であり、目的は同一なるも手段方法が異なっているにすぎぬ」と。
五高生の考えは深刻である。現代の高校から大学生活はもっと楽観的で、なるようにしかならないとの考えが多いようである。世間がそのように仕向けていたのであろうか?