何時ものことながら月日の経つのは早い神無月の最終週になった。明後日からは11月霜月である。
霜月について一寸調べてみた。11月はグレゴリオ暦で年の第11番目に当たり30日間あるとある。
日本では旧暦11月を霜月と呼び現在では新暦11月の別名として用いている。
結局11月霜月は文字通り霜が降りる月の意味であるようだ。
昔から11月は逃げると言われているように何時の間にか師走12月になってしまう。
俺が幹事しているピンポンクラブ・さわやか大学大学院等の忘年会・新年会もセットしなければならないだろう
人間は飲んだり食ったり、遊んだりすることが大好きである。
昨日は五高記念館に出た。標題大正12年以降と言う冊子を転載しているが下に大正15年の1・2月の様子を書いて見た。
当時の担当者が義理で書いておられるのか何のことか解らないところもあり字も何を書いてあるのか、乱雑な早書きで
読めない字も多くあり、まさか90年後に転載するなど思われなかったろうし、そのため自分で読めて理解できた部分だけ転載している。
庶務日誌を転載して感心したことは
何か問題があった時には必ず評議会が開かれ協議されていること。五高の民主主義の根幹であったのか?
溝淵校長の上京が多いこと、これは当時の全国の高等学校の校長で指導的立場であったことが主なる理由であるようだ。
生徒に対する訓戒処罰等が多いこと、これは生徒の人格形成教育を考えていたようである。
家庭環境まで学校から見ていたのか生徒の家庭の葬式には殆ど学校からも出ているようであること。等である
一月一日 金 曇
○ 新年の祝賀式 午前九時より瑞邦館に於いて行う。旧済美館工事中のため
一月四日 月 晴
○ 御用始
○ 元教授白川継詔氏来校
一月五日 火 風雨後晴
○ 新年宴会・・・・・・日本人は飲むことが好きであったのか行事の後には必ず宴会が開かれている。
一月八日 金 曇
○ 今日より第三学期授業始まる
一月九日 土 曇
○ 文三甲二吉村才八に対し校長より訓戒を加える
一月十一日 月 晴
○ 柔剣道寒稽古本日より二週間行う・・・・柔道・剣道は強かったと言われるように全体的な稽古は必ず行われている。
一月十四日 曇
○ 文二甲二川辺 祖父死亡の旨電話あり
一月十五日 金 曇
○ 入学志願者名票本日より受付始める
一月十六日 土 晴
〇 午後福岡へ出発す・・・・・誰が福岡に行ったのか不明
一月十七日 日 曇
〇 福岡より帰熊
一月二十日 水 曇
〇 村岩子磯夫に願書用紙を送る
一月二十一日 木 晴
〇 評議会開く 理三甲三村中虎雄理二甲二小泉之太郎の特別退学の件及び元理一渡辺武徳(特別退学中)の情報交換に関する件・・・特別退学とは?
一月二十二日 金 曇
○ 一年生の野外演習を行う・・・・・野外演習はとても多かったようである
○ 福高生徒監岩口武来校・・・・・・他の高等学校等からの訪問は多い
一月二十五日 月 晴
○ 溝渕校長本日午後上京される。
一月二十六日 火 晴
○ 扶桑伝七、伊藤清氏講演の為来校目下生徒多忙の為・・何のことか理解不能
一月二十七日 水 晴
○ 評議員会を開く理二甲三小川文男特別退学に関する件
○ 本校卒業生樋口芳雄氏来校
一月二十九日 金 晴
○ 加藤首相の弔電を発す
一月三十一日 日 曇
○ 入学願書受付最終日なるも本日、日曜なれど教務課、会計課出勤受付を為す
○ 永田溝雄母堂葬式 本日午後清廉院にて行われる。
○ 理三甲二松前清三の葬式大江善光寺にて行われる。
二月一日 月 曇
○ 本日より第三学期臨時試験を始める
二月二日 火 晴
○ 午後溝渕校長帰熊
二月四日 木 曇
○ 六高教授野田純雄氏来校
○ 溝渕校長病気の為本日引き篭り
○ 総務委員より龍南会規則改正案提出せり
二月五・六日 金 曇
○ 溝渕校長本日も引き篭り
二月七日 日 晴
○ 講師 下村昭雄氏本日白川病院にて死亡
二月九日 火 曇
○ 天草中学校長田中秀次郎氏来校卒業生宮本五郎氏の危残の件 危残・・・理解不能
○ 大学入学願書を発送する
二月十日 水 曇風
○ 二・三年生野外なりしが都合により中止し講話を行う
二月十一日 木 曇
○ 紀元節祝賀式・・・・何時も国家のお祝いは盛大に祝賀されている。
二月十二日 金 晴
○ 前田主任欠勤
○ 故下村講師の告別式午後四時より浄行寺にて行う
以上転載した分について照会したが明治期の五高開設当時の庶務日誌に比べて読みにくく、解りづらく読みづらい事は仕方がない事か?
霜月について一寸調べてみた。11月はグレゴリオ暦で年の第11番目に当たり30日間あるとある。
日本では旧暦11月を霜月と呼び現在では新暦11月の別名として用いている。
結局11月霜月は文字通り霜が降りる月の意味であるようだ。
昔から11月は逃げると言われているように何時の間にか師走12月になってしまう。
俺が幹事しているピンポンクラブ・さわやか大学大学院等の忘年会・新年会もセットしなければならないだろう
人間は飲んだり食ったり、遊んだりすることが大好きである。
昨日は五高記念館に出た。標題大正12年以降と言う冊子を転載しているが下に大正15年の1・2月の様子を書いて見た。
当時の担当者が義理で書いておられるのか何のことか解らないところもあり字も何を書いてあるのか、乱雑な早書きで
読めない字も多くあり、まさか90年後に転載するなど思われなかったろうし、そのため自分で読めて理解できた部分だけ転載している。
庶務日誌を転載して感心したことは
何か問題があった時には必ず評議会が開かれ協議されていること。五高の民主主義の根幹であったのか?
溝淵校長の上京が多いこと、これは当時の全国の高等学校の校長で指導的立場であったことが主なる理由であるようだ。
生徒に対する訓戒処罰等が多いこと、これは生徒の人格形成教育を考えていたようである。
家庭環境まで学校から見ていたのか生徒の家庭の葬式には殆ど学校からも出ているようであること。等である
一月一日 金 曇
○ 新年の祝賀式 午前九時より瑞邦館に於いて行う。旧済美館工事中のため
一月四日 月 晴
○ 御用始
○ 元教授白川継詔氏来校
一月五日 火 風雨後晴
○ 新年宴会・・・・・・日本人は飲むことが好きであったのか行事の後には必ず宴会が開かれている。
一月八日 金 曇
○ 今日より第三学期授業始まる
一月九日 土 曇
○ 文三甲二吉村才八に対し校長より訓戒を加える
一月十一日 月 晴
○ 柔剣道寒稽古本日より二週間行う・・・・柔道・剣道は強かったと言われるように全体的な稽古は必ず行われている。
一月十四日 曇
○ 文二甲二川辺 祖父死亡の旨電話あり
一月十五日 金 曇
○ 入学志願者名票本日より受付始める
一月十六日 土 晴
〇 午後福岡へ出発す・・・・・誰が福岡に行ったのか不明
一月十七日 日 曇
〇 福岡より帰熊
一月二十日 水 曇
〇 村岩子磯夫に願書用紙を送る
一月二十一日 木 晴
〇 評議会開く 理三甲三村中虎雄理二甲二小泉之太郎の特別退学の件及び元理一渡辺武徳(特別退学中)の情報交換に関する件・・・特別退学とは?
一月二十二日 金 曇
○ 一年生の野外演習を行う・・・・・野外演習はとても多かったようである
○ 福高生徒監岩口武来校・・・・・・他の高等学校等からの訪問は多い
一月二十五日 月 晴
○ 溝渕校長本日午後上京される。
一月二十六日 火 晴
○ 扶桑伝七、伊藤清氏講演の為来校目下生徒多忙の為・・何のことか理解不能
一月二十七日 水 晴
○ 評議員会を開く理二甲三小川文男特別退学に関する件
○ 本校卒業生樋口芳雄氏来校
一月二十九日 金 晴
○ 加藤首相の弔電を発す
一月三十一日 日 曇
○ 入学願書受付最終日なるも本日、日曜なれど教務課、会計課出勤受付を為す
○ 永田溝雄母堂葬式 本日午後清廉院にて行われる。
○ 理三甲二松前清三の葬式大江善光寺にて行われる。
二月一日 月 曇
○ 本日より第三学期臨時試験を始める
二月二日 火 晴
○ 午後溝渕校長帰熊
二月四日 木 曇
○ 六高教授野田純雄氏来校
○ 溝渕校長病気の為本日引き篭り
○ 総務委員より龍南会規則改正案提出せり
二月五・六日 金 曇
○ 溝渕校長本日も引き篭り
二月七日 日 晴
○ 講師 下村昭雄氏本日白川病院にて死亡
二月九日 火 曇
○ 天草中学校長田中秀次郎氏来校卒業生宮本五郎氏の危残の件 危残・・・理解不能
○ 大学入学願書を発送する
二月十日 水 曇風
○ 二・三年生野外なりしが都合により中止し講話を行う
二月十一日 木 曇
○ 紀元節祝賀式・・・・何時も国家のお祝いは盛大に祝賀されている。
二月十二日 金 晴
○ 前田主任欠勤
○ 故下村講師の告別式午後四時より浄行寺にて行う
以上転載した分について照会したが明治期の五高開設当時の庶務日誌に比べて読みにくく、解りづらく読みづらい事は仕方がない事か?