何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

「涙を知らなかった私  それを覆した祥一郎の死」

2016年05月03日 | 死別体験


私はもう56歳になった。

半世紀以上生きてきてつらつら考えてみる。

私は近しい人が亡くなった時、心から泣いたことがあっただろうかと。

一番最初の肉親の死の記憶は、祖母の死だった。私がまだ幼い頃で、それほど会ったわけでも無く、
ろくでもない父のせいで祖父母に預けられ、しばし一緒に暮らした記憶しか無い、
もう祖母はきょう明日の命だった頃に、父に伴われ東京から大阪へ急ぎ、虫の息の祖母に挨拶をして、その後帰京した後に祖母は死んだ。勿論泣いた記憶も無い。

そして祖父の死。
その頃は家出同然に、祖父の居た実家を後にして数年が経ったころで、かなり折り合いの悪かった祖父に会いたいとも思わなかった。
兄から祖父が死んだというた久しぶりの連絡が有り、義務的に葬儀に出て、これも何の感慨も無かった。兄と弟はずっと実家で祖父と暮らしていたので、私とは思い入れが違うのだろう。
祖父も死に際に、兄と弟の名を呼びながら息を引き取り、私の名は出なかったそうだ。さもありなん。
祖父とは、この世ではかりそめの縁でしか無かったのだろう。

実の父の死。
この時こそ、それまでの私の人生を象徴しているような肉親の死だった。
よくぞ死んでくれた、やっと死んでくれたと思ったものだ。
それほど私は父を憎んでいたし、成人してから一度も会っていないし、会いたいとも会うつもりも無かった。
遠い北海道の地で、ひとり誰にも看取られることも無く死んでいったそうだ。
既に骨になって大阪に居た私と兄の元に届けられ、殆ど無縁仏のような扱いで、とある寺に葬られた。

母は・・・・
もう多分死んだだろう。
最後に会ったのは私がまだ小学生低学年だった頃だと思う。
鬼畜のような父とどうしても別れたくて、腹を痛めて産んだ子がどうなろうと知ったことではなかったのだろう。その後どこでどんな人生を歩み、どのように死んだのかさえ知る由も無い。

自分ながら、愕然とする。

この歳になるまで、まがりなりにも血の繋がっている人の死に際して心から悲しみ泣いた記憶が無いのだ。
それほど私は血縁、肉親というものに縁遠かった。
それは幼い頃からの環境がそうさせたという面もあるし、私自身がそう望んだと言う面もある。
良い悪いではなく、そうだったのだから仕方がない。

私の人生において、血の繋がりなど何の意味も無い。


そしてそれから・・・・・

まったくの赤の他人だった祥一郎と出逢い、数十年共に暮らし、そして彼の死に際した。

こんなにも、人が死んだ事で悲しみ、苦しみ、喪失感を味わう経験を現在もしている。

涙は枯れること無く溢れ、自分自身の存在する意味さえ失って、心は血に塗れている。

この世での、人と人との縁や絆、その不思議を強く感じる。

私にも、人が死んで悲しむという人間らしさがあったのだということを知らしめた祥一郎の存在。

今後もう二度と無いであろうこの人間としての悲しみ。

乾燥しきった砂漠の中で、涙の息吹を蘇らせたような景色を、祥一郎の死は私に教える。

私に人間としての感情がある事を知らしめたこの出来事は、何がしかの意味があるのだろう。

しかしその見返りだろうか、今この瞬間もこれから先も、辛い、苦しい、哀しい・・・・のたうちまわるであろう自分が居る。

今強く思う。
こんな思いをするのなら、人の死によって何の感慨も無かったあの頃の自分の方が楽だったのではないかと。

祥一郎よ・・・・・・

私にはもう何が真理なのか、わからないよ。

そう、お前の死さえ無かったなら・・・・・おっちゃんは人と人との出逢いと絆、温かさとその喜びだけで生きていけたのに・・・・。



にほんブログ村 家族ブログ 死別へ

カミングアウト  祥一郎と私の誇りのため

2016年05月02日 | LGBT


あれは祥一郎と永訣してから数日経った頃だ。

錯乱状態で、何が起こったのかまだ理解できない状態に陥り、当然ながら祥一郎の死を受け入れてなどいなかった真っただ中。

けれども私はただ一つだけ、これだけは血縁や親族達に伝えておかねばならないという思いがあった。

ボロボロの精神状態でも、それだけはやらねばならないという信念があった。

それは、カミングアウトすること。


兄弟や従兄弟たち、たいして付き合いも無く別に会いたいとも思わないが、悲しいかな、私がもしひとりで死んだら後始末するのは彼等だと思い至ったのだ。

それは祥一郎の死に際して彼が荼毘に付された時、実の父親と弟が複雑な心境の中、後始末に来たということとも関係している。

私という伴侶が居たにしろ、結局ゲイのカップルにとって片方が死んでも、もう片方が色々な面で主人公にはなりえない社会構造だというのは現実なのだ。

葬式にしろ、墓の問題にしろ、仏事にしろ、血縁が取り仕切るようにこの社会はなっている。



その上で。

カミングアウトしようと思った理由はただ一つ。

祥一郎と私が紛れも無く家族だったことは誇りだからだ。

私がたった一人で死んだら、私の痕跡では無い、兄弟や従兄弟達から見れば誰か他の人の痕跡が後から後から明るみに出るだろう。
そう、祥一郎がそこで生きた証が次から次へと私の骸の傍から出るだろう。

その時に、私と祥一郎が確かにそこで暮らし、愛し合い、家族として過ごした年月があったのだと、彼等に知らしめるため、カミングアウトしたのだ。

要らぬ詮索を避け、祥一郎の痕跡をすぐ処分させることを防ぐため、私はゲイであり、祥一郎という伴侶が居たのだということを理解させるためなのだ。

別に私自身が楽になりたかったとか、ゲイを隠すのが嫌だったとか、そういう問題では無く、私と祥一郎が共に生きた証、それは誇りであって、なんら恥ずべきものではない、だからカミングアウトすることにした。

大阪に居る兄にカミングアウトした際、兄は黙って聞いていた。

私が、「俺には、愛し愛された同性の伴侶がいた。何が言いたいかはわかるよね?こんなこと言うのは、勇気のいることなんだよ。」と言ったら、

「・・・・・・・そうだろうな。」と呟いたのみ。
別に理解のある言葉を兄から聞きたかったわけでもなく、そんな関係でもないが、とにかく私が死んだら、祥一郎との人生があった事だけは伝えた。

従兄弟達は幼い頃、短期間一緒に暮らしたことがあり、その頃から何となく気付いていたようで、

「お前何をいまさら。お前、死んだオモニ(韓国語で母のこと。私にとっては伯母になる)にその人とのこと言ったのか?」と言われた。

正月の墓参りのときにちゃんと伝えたと言ったら、「そうか、お前、これからはゲイの権利向上をライフワークしたらどうだ?」とも言ってきた。

兄にカミングアウトしたときとは違ってやや拍子抜けした感があったが、私は東京で死ぬかもしれないので、近場の従兄弟たちにも伝えることは伝えた。



私はおそらく孤独死するかもしれない。悔しいが、世話になりたくないが、その時に後始末するのは彼等だ。

その時に祥一郎の遺影や位牌、あいつの遺品が何故あるのか、これで理解するだろう。


今もうひとつ考えていることがある。それは遺書の作成だ。

私が死んだら、祥一郎の遺品とともに葬って欲しい項をしたためた遺書を作成しておこうと思っている。

法律的なことも含めて、これから色々と自分の残す遺書のことを調べようと思っている。



にほんブログ村 家族ブログ 死別へ

私を助けた鯉のぼり  祥一郎の支え

2016年05月01日 | 悲しい



あれはいつ頃だっただろう。

もう5~6年前になるだろうか。

私はある金融関係のことで、大きなトラブルに巻き込まれた。

そして同時期にリーマンショック後の不景気で職場をリストラされてしまった。

加えて、祥一郎と一緒に住んでいた部屋の大家と、雨漏りのする屋根修繕の件で揉めていて、住居をどうするか悩んでいた。

重なる時は重なるもので、どれひとつとっても大きな問題だった。

これだけ重なると、さすがに私も参ってしまい、酷い鬱症状が現れ出した。
心臓を鷲掴みにされているような感覚、腕が痺れ、何をする気力も無くなり、ときどき大声を出す、泣きわめく等のパニックを起こすようになった。
一日中部屋のソファーで横になり、まるでゾンビのような状態になってしまった。

やっと見つけた近所の心療内科で貰った薬は効かず、眠れないので酒をあおるようになる。
精神薬と酒の同時服用が良い結果を招くわけがない。
幻覚まで見るようになってしまった。

夜中に起き出して、壁から綿が出てくる幻覚を何度も見るようになり、その度に祥一郎が、

「おっちゃん、おっっちゃん、しっかりしい!なにもあらへんで!」

と言って私を我に返してくれた。

あの時、祥一郎が居てくれなかったら、自分は本当にどうなっていたか分からない。

祥一郎は、不安が酷いときずっと手を握ってくれた。

私がパニックを起こしている時、抱きしめてくれた。

その後、私に振りかかった災難は、各方面への相談や友人知人の助けも有って徐々に道筋が見え始め、未だ完全解決に至っていない問題もあるが、なんとか鬱状態からは脱した。

ちょうど今頃の季節だったと思う。

部屋に引きこもって茫然自失している私に、祥一郎が、

「おっちゃん、公園に大きな鯉が泳いでいるよ。」
とメールをよこした。

行ってみると、子供の日が近いからだろう、何匹もの大きな鯉のぼりが風にはためいていた。

少しでも私の気分を晴れさせようとしてくれたのだろう。

しばらく二人でその鯉のぼりを眺めて、気分を落ち着かせたものだ。

あの時、あの狭い部屋であんな状態の私に、よく祥一郎は耐えてくれたと思う。
一緒に暮らしている者にとっても、パートナーがそんな状態では普通で居られないだろう。

誰かが傍にいてくれる。
その有り難さを、あの時ほど感じた事はない。


今年もそんな季節になった。

祥一郎がよく日光浴をしていたあの公園に、また大きな鯉が泳いでいる。

祥一郎・・・・・・

ありがとう。あの時は本当にありがとう。

お前が居なかったらおっちゃんは、ひょっとしたらお前より先に逝ってしまった可能性だってあったよ。

二人は紛れも無く家族だった、支え合う関係だった、それをあらためて強く感じさせてくれたね。

あの鯉のぼりを見る度、毎年お前に感謝することになるよ。

祥一郎・・・・・・お前と出逢って、本当に良かった・・・・・・いつかまた逢えるよね。

絶対逢ってみせるよ・・・・・

にほんブログ村 家族ブログ 死別へ

ダイレクトメール  生きていることになっている祥一郎・・・

2016年04月30日 | ひとりぽっち



階段下の、ポスト、祥一郎の名前がもう消えかかっている。

あいつは毎日自分宛ての物がないか確認していたけれど、私はあまりしない。

三日か四日に一度くらいだ。
どうせ請求書と、くだらないチラシくらいしか入っていないから。

でも・・・・・

ときおりまだ、祥一郎宛てのダイレクトメールが届く。

もうこの部屋に、この世に居ない祥一郎に届く。

殆どがコスメ関係の会社からのものだ。

あいつはそれはそれは多くのコスメを通販で買ったり、ネットで試供品を申し込んだりしていたから、
今だに届くのだ。


それを手に取り、わたしはどうしていいのか迷う。

すぐ処分するのもなんだか切ないし、かといって取っておいても祥一郎はもう居ない。

結局はしばらくテーブルの上に放っておいて、やはり処分する事になってしまう。

先日 再春館製薬という会社からのDMが届いた。あのドモホルンリンクルの会社だ。

何を思ったのか、わたしはそのDMに書いてある電話番号にかけてみた。

「すいません、〇〇祥一郎宛てに届いたDMの事なんですけど。」

「はい、いつも有り難うございます。本日はお買い上げですか?」

「いえ、実は・・・・・私はこの〇〇祥一郎の同居人なんですけど、彼はもう亡くなったんです。」

「・・・・そ、それはそれは・・・・お悔み申し上げます。あの、念の為御住所を確認させて頂いてもよろしいですか?」

私は住所を伝え、

「そう言う事なので、お宅に会員登録しているのなら、抹消して頂きたいんです。」

「はい、かしこまりました。わざわざ有り難うございます。この度は本当にお悔やみ申し上げます。今までありがとうございました。」

・・・・・・・・
・・・・・・・・

というようなやり取りがあり、電話を切った。

切った後、やるせなくて切なくて涙が溢れて止まらなかった。

これからも別のDMがときおり届くだろう。

祥一郎の住所なり会員番号なりがまだ登録されていてまた届くだろう。私の知らないところで、祥一郎はまだ生きていることになっているのだ。

それを思うとなんとも言えない感情に襲われる。

やはりDMが届く度、上で書いたようにちゃんと報告した方がいいのだろうか。

その度に哀しくなるが、かといってそれをしないとまた届いてしまってその封筒を見るとはやり哀しくなる。

祥一郎・・・・・・・

おっちゃんはどうしたらいいんだい?

どっちにしても悲しい思いをすることになるよ。

だから、だからあまりポストの中を見るのが嫌なんだ・・・・

祥一郎・・・・・・切ないよ・・・・


にほんブログ村 家族ブログ 死別へ

ジャスミンの薫る頃  祥一郎が教えてくれたもの

2016年04月29日 | 喪失感

まったくの赤の他人同士が出逢って、何十年も共に暮らすこと。

当然ながら、最初はお互いの価値観や主義趣向、趣味や嗜好がぶつかり合う事も有る。

それが年月が経つうちに、相手のそれを受け入れ、譲歩し、認め合う。

そうやって絆は深まるんだ。

勿論私と祥一郎もそうだった。

当初は箸の上げ下ろしまで気になったものだが、一緒に暮らすうち、我慢できない事も我慢出来るようになり、なんとなくお互いの一線がわかってくる。
一線を越えた時は喧嘩になったりもするけど、それを越えない限りうまくやっていける。
赤の他人同志が家族になるというのはそういうことなんだ。

それを祥一郎との暮らしは教えてくれた。

お互いがお互いの世界観を持っていて、それを教え合い認め合うことが絆というものかもしれない。


祥一郎、お前はおっちゃんになにを教えてくれただろう。

〇コスメ
若い頃から化粧品などまったく興味の無かった私に、世の中にはこんなにも男性用の化粧品やら、男女とも使用可のもの、香水、その辺の石鹸とはまるで違うコスメ石鹸、その他諸々があることを教えてくれた祥一郎。
私が足に豆が出来やすいことを知って、豆が出来ないように角質がとれるクリームを塗ってくれたね。
そうそう、スイカの匂いのする化粧水をくれたときはびっくりしたよ。こんなものがあるのかって。
顔面パックなんかもときおり一緒にやったよね。二人で笑わせあって台無しにしたりして。
祥一郎の化粧品、石鹸、まだ残っているよ・・・・・。

〇ミュージカル
これもまったく興味も、観る機会も無かった私に教えてくれた祥一郎。
最初に観たのは「美女と野獣」。あの時のあいつの喜びようったら・・・・・
後は「李 香蘭」「クレイジー・フォー・ユー」「マンマ・ミーア」「エビータ」その他諸々。

祥一郎に強く背中を押されて全く縁の無かったミュージカルなるものに、こんなに何回も行ったとは。
個人的に「ライオンキング」に一緒に行きたかったけど、もうそれは出来ない・・・・

〇テレビゲーム
最初はプレイステーションだった。
これも私の知らない世界だったけど、祥一郎が初期のプレイステーションを買ってきて、ゲームを始め、ちょっと私も触ってみたら、けっこう暇つぶしになるし、段々面白くなってきて、新型のプレステが出ると私自ら買ってきたりしていた。
最初にやったゲームはズバリ、「バイオハザード」。いやあこれは面白かった。特に「バイオハザードⅡ」が秀逸だった。二人でプレステの取り合いで喧嘩したり、どこまで進んでいるのか競争したり、楽しいゲームオタク生活を二人で楽しんだ。いったい何度中古ゲーム屋に足を運び、何枚ゲームソフトを買ったことだろう。いまだにそれは殆ど残っている。誇りを被ったプレイステーションⅡと共に。祥一郎と遊んだ想い出とともに。

〇入浴の楽しみ方。
およそ入浴剤など、入れて風呂に入る事が無かった私だったが、祥一郎はやれバスロマンだのバスクリンだの、その辺のドラッグストアに売ってるものだけでなく、どこから仕入れてくるのか、ハーブの強い匂いのするものや、泡だらけになるもの、夏は肌が冷えるものや、冬は身体を芯から温めてくれる物など、あいつの入浴に対する拘りは私など足元に及ばなかった。
お湯の色が真っ赤になっていたときはびっくりしたものだ。いったいどんな入浴剤を入れたんだろうと。でも良い香りがした。
今はひとりしか入らない風呂。でも、入浴剤を入れる習慣は残った・・・・・・・。

このように、祥一郎は私の世界観を色々な面で広げてくれた。


そしてまだある。あいつが教えてくれた物の中でとても大事なものが。

〇人を愛すること愛されること、人の温もりを感じること、いつも傍にいてくれる安心感、私はひとりじゃないという心地良さ。

語るまでも無いけれど、祥一郎が教えてくれたものでこれらが一番私にとって美しく、かけがいのない、
失いたくないものだった。

そしてそれらは、夢のように突然無くなってしまった。

どんなに探しても、どんなに望んでももう手に入れることはできなくなった。


祥一郎・・・・・・

お前が残したコスメや、ミュージカルに行った時に買ったグッズ、ゲーム機やゲームソフト、入浴剤を持って、「はい、忘れものだよ。」と言ってお前の元へ戻れる日は来るんだろうか。

いや、いつか来ると信じて生きよう。

そうするしかないんだよ、おっちゃんは・・・・・・・・・・。


家の周りに、あの白っぽい花が咲く季節になったよ。甘い薫りのするあの花だ。

お前が、「おっちゃん、あれはジャスミンの花だよ。知ってた?」って教えてくれた。

お前にもあの薫りは届いているだろうか・・・・・・・・・・・・・・・・


にほんブログ村 家族ブログ 死別へ