何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

月命日  そして皮肉な誕生日

2016年04月28日 | 菩提を弔う

祥一郎・・・・・

4月28日、四度目の月命日だ・・・・・・・・・

東京は冷たい雨だよ。

自分で勝手に思ってる。おっちゃんの涙雨だと。

この四カ月・・・・長い長い四ヶ月だった。
人間歳をとると月日は早く過ぎるというけれど、この四ヶ月はまるでぬかるみに足を取られて歩いているような、粘るゼリーの中でもがくような、そんな日々だった。

お前が急激に体調を悪くして、そしてそのまま天に召されて行き、その後の地獄のようなおっちゃんの時間、それらはまだ連綿と続いている。あの時からのお前の死とそれに関連した出来ごとの真っただ中にまだ居るんだ。

本当はお前の霊前で、一日ゆっくり過ごしたいけれど、きょうは仕事だからごめんね。

そのかわり明日は休みだから、新しい花を供えて、お前の好きだったものを買って一緒に食べよう。なに、いつもそうしているけど、ちょっと明日は豪華にね・・・・

一日お前の為に過ごすんだ。お前の為だけに・・・・・



そして・・・・・・・
きょうはおっちゃんの誕生日でもある。なにか皮肉だね。

28という数字になにか因縁でもあるんだろうか・・・・・・・

お前が初めて誕生日にくれた手袋・・・ありがとうね。バイクで通勤していたあの頃、寒くないようにってくれたんだよね。

それからも、毎年ささやかに祝ってくれてありがとう。

お金が無い時も、小さなケーキや、煙草を買ってくれたり、お前がその時できる精一杯のことをやってくれた・・・・・・・・・

もうおっちゃんの誕生日を祝ってくれる人は居ない・・・・・

こんな歳だから今更どうでもいいんだけど、お前が傍に居ないことで、何より悲しい誕生日になってしまった。

毎年こんな思いをするんだろうか・・・・・きっとそうなんだろうね。

今強く思うのは、おっちゃんの寿命がまだあるのなら、それをお前に分けてやりたかった。
そして、天に召されるのなら、できるだけ時間差が無いようにしたかった。置き去りにされる月日が短くなるようにね。

祥一郎・・・・・・・
お前は今何処に居るんだい?

お前を感じたい・・・・お前の気配を、温もりを、息づかいを、存在を・・・・・・

きょう明日は、お前が来てくれることを祈ります・・・・・・・・・・・・・

雨が強くなってきたよ・・・おっちゃんの悲しみの深さを表すように・・・・・・


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再掲  「祥一郎 突然の死」

2016年04月28日 | 死別体験
きょうは祥一郎の月命日です。
あの時を忘れないように再掲します。


読者の皆様、はじめまして。

私けいはこの度、20数年苦楽を共にした相棒を突然、あまりに突然悲惨な形で亡くしてしまいました。彼の名は祥一郎と言います。


12月中ごろから下血が始まり、本人はイボ痔だと言っていて、以前にもあったからその内治ると言っていました。痔の薬を塗布し、やり過ごしていました。

しかし20日頃から今度は腹部の張りが見られ、高熱が出るようになりました。
それでも本人は大丈夫、今に治るからと言っていました。

下血は止まらず、パンツが汚れるのでオムツを買い、熱さましも買い、痔でも座れるクッションも買い、痛み止めも買い、なんとかやり過ごそうとしましたが、それでも症状が治まりません。ときおり酷い寒気や震えも見られるようになりました。

これはやはおかしいと思い、私はなんとか無料か定額で受診できる算段を模索しました。何分にもふたり食べていくのがやっとで、私にも彼の診療費を出す余裕が無く、保険証は会社のものなのでそれを貸すわけにもいかず。

27日に病院のソーシャルワーカーにも相談し、とにかく生活保護の医療扶助を受けるように動いて、病院としては来た患者を断るわけにはいかないので受診して、お金のことはその後相談しましょうとのことでした。

私は更に、住んでいる地区の共産党の議員に生活保護の医療扶助受給に協力してほしいと相談をもちかけ、その場で28日の午前中に福祉課に一緒に行きましょうとの言質を頂きました。

思えばその二日くらい前、珍しく祥一郎が「おっちゃん、手を握って。」と言ってきました。

なにを今更と思い、「さすがに弱気になったの?大丈夫、おっちゃんがなんとかするから。病院行けるようにするから。」といって軽く彼の手を握ってやりました。彼は少し涙ぐんでいました。


祥一郎は28日前夜から変なしゃっくりが止まらず、寝室でも少量嘔吐していました。本人は「昨日食べたチョコレートを吐いちゃった。」といい自分で処理してました。

そして当日です。
私も殆ど心配で寝られず、午前中に議員と福祉課に行って、その後祥一郎を近所の病院に連れて行く算段でした。

しかし早朝7時前ごろ、祥一郎は起き出してきましたが、台所でドスンという大きな音、そして悲鳴のような叫び声のような声が聞こえ、駆け付けると仰向けに倒れた祥一郎が目に入り、抱き起そうとしましたが、突然の大量吐血。
私の膝の上で大量吐血しました。とにかく血を吐き出さそうとして私は祥一郎を横向けにし、背中をタッピングしました。しかし目の焦点は合っていず、呼吸もしていません。私はあわてて介護職の現場で習った心臓マッサージを行いました。マウスtoマウスも行いましたが、意識は戻らず、119番しました。その後もマッサージを行いましたが、祥一郎は戻って来ません。
救急隊員が到着、処置を施しましたが、それでも意識は戻りません。

そして祥一郎と私は救急車の車上の人となり、病院に到着、引き続き救急処置をおこなっていましたが、無情にも医師から、「残念ながら、心臓の鼓動は戻りませんでした。」との死刑宣告を受けました。


皮肉にも、生活保護受給に関して必要になる、千葉在住の彼の実父、弟の連絡先を前夜に詳しく聞いていたメモが手元にあり、迅速に連絡をとることが出来ました。

その時点で私は何が起こったのか、これは現実なのか、動物園の熊のように冷たい病院の廊下を行き来し、ミクシイで知り合った友人に事の顛末を連絡しました。彼は遠い横浜からかけつけてくれ、もうひとり都内の友人も駆け付けてくれました。どちらも祥一郎のことは殆ど知りません。

時間が経過し、やっと実父と弟が到着。
初めて会う得体のしれない私を見て、困惑しているようでしたが、そうも言っておられrず、私は経過を説明しました。
その前に刑事に、事件性の有無の調査でふたりが同性愛の繋がりで有ったことは説明したので、それは二人とも知っていたのでしょう。

二人とも嘆き悲しむどころか、淡々としていました。
私にはあずかり知らぬ肉親の関係性があったのでしょう。しかしその後の言葉に耳を疑いました。

「葬式はせず、明日火葬します。」

なんと、厳粛なお別れをしないというのです。

しかし肉親の言う事、私には猛然と反発することも出来ず、諦めるしか有りませんでした。


その後実父と弟と連絡先を交換し、翌日の火葬場には私も行くことになりました。

祥一郎の死に顔を見ても未だ信じられぬ私は、後ろ髪を引かれる想いで、病院を後にしました。その間ずっと横浜の友人は付き添ってくれました。その後二日間一緒に居てくれました。血だらけになった部屋の片づけも、遺品整理も手伝ってくれました。


翌日の火葬の場。
実父と弟から聞いた話では、祥一郎の死の原因は上部消化管出血によるショック死との事でした。
なぜ出血したのかは、消化管のどこかに潰瘍かガンがあったのではないか、詳しくは解剖しないとわからないとのこと。肉親に希望によって解剖は行わないことになっていました。私の意志など関係ありません。

そして火葬終了後、なんとか分骨をさせてもらえました。

弟さん曰く、「ひょっとしたら兄はその辺で野垂れ死にしたかもしれないのに、私たち肉親よりもずっと長く過ごしたけいさんに看取られて、兄もよかったと思います。」
弟さんも何か感じるところが有ったのでしょう。その言葉で少し救われた気がしました。

火葬前にも、実父が泣きじゃくっている私の背中をさすってくれていました。


その後横浜の友人と4人で、私と祥一郎の過ごした部屋へ戻り、遺品を肉親に手渡しました。

ゆっくり話す間もなく、実父と弟は帰って行きました。

遺品整理しても祥一郎の写真がほとんど見つからず、唯一最近の写真で免許証の写真を引き伸ばして、私にも送ってくれるとのことでした。

あまりのもあっけなく終わった、祥一郎とのお別れの儀式。

その後、私はがらんとした部屋で、まだまだ残った祥一郎の痕跡に囲まれながら、悲しみと苦しみと慟哭に苛まれています。

かたっぱしから友人知人に連絡し、私をひとりにしないでほしいと喚き散らしました。

それに呼応した優しい友人たちは、遠くは栃木からを始め都内からも何人も私の部屋を訪ねてくれました。電話やメールも頂いています。

それに縋って私はまだ辛うじて、心身を保っています。

思えば私は年末の21日から29日まで、1月にある介護福祉士の勉強のため長期休暇をとっていました。
それに合わせるかのように祥一郎は状態を悪化させ、まさに受診の当日の早朝に逝ってしまったわけです。

そしてあんなに嫌がっていた、肉親に知られることになる生活保護受給の件もやっと観念し、連絡先を私に教えて、その後逝ってしまったのです。

これは何かの筋書きなのかと思われてなりません。死神の意志に沿った筋書き。


もっと早くに私が動いていれば、もっと早くにあの子の状態を把握していれば、何ヶ月か前に血圧が高いと言って目眩がすると言っていた時点で動いていれば………悔やんでも悔やみきれるものではありません。

どうしても私の見通しが甘かったと思えてなりません。また、祥一郎本人も今まで体調が悪くなっても医者にはかからず、なんとかやり過ごしてきたという過去があったのかもしれません。

様々なことが遅すぎ、そしてあと一歩遅かった.。


祥一郎はもう居ません。

20数年の私たちの紛れも無い家族の歴史は、一瞬で閉ざされました。

お互いがお互いしか居ませんでした。

どんな時も、私がどんな境遇に陥っても祥一郎はいつも傍らに居ました。

祥一郎は逝ってしまいました。

残された私は、未曾有の悲しみと苦しみと慙愧の念と共に生きて行かねばなりません。


時間は過ぎて行きます。

いつか祥一郎の死が記憶になるまでどれほどかかるのか。それを考えながら私は茫然としています。


巨大な悲しみのために、あまり涙を流すことも出来ないでいます。

いっそ狂ってしまえばいいとも思っています。彼の記憶が無くなるように。

私は、私は、もう祥一郎無しでは生きていけないかもしれません。


運命や神という概念が本当にあるのなら、私はそれを呪います。


ひっそりと都会の片隅で肩を寄り添い、貧しくつつましく助け合って生きてきた祥一郎と私に、何の咎があったのでしょう。

誰か教えてください。誰か………


祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎…………


どこに行ったの?早く帰っておいで。

はやく病院に行かなきゃ。後のことはおっちゃんにまかしとき。

そしてはやく治って、またいつもの暮らしに戻ろう。

二人はいつも一緒だよ……いつも一緒だよ………

「詩(うた) ふたり一緒のとき」

2016年04月27日 | 悲しい


俯いて歩く癖がついた。

徒歩でも、自転車を引きながらでも、俯いて俯いて歩く。

何かを探している?

いや、そうじゃない。祥一郎が居ないこの世をまともに見ていたくないから。

次から次へと溢れてくる、あいつへの想いで頭と心がいっぱいになり、下を向く。

そして涙が地面を濡らす。

ときおり、前を向いて歩く。

どこの誰とも知れない人とすれ違う。

何の根拠も無く、「この人は、私が今感じているような悲しみには縁がないのだろうな。」などと思う。

ごくたまに、空を見上げる。

青い空だろうと曇り空だろうと、空いっぱいにお前の顔が見えやしないかと、見上げてみる。

でも、そこに見えるのは何も変わらない、普通の空。



振り返る癖がついた。

祥一郎がよく居た公園のなだらかな坂道を登る時や、一緒によく歩いた道を歩く時、何度も何度も振り返る。

でも、そこに見えるのは家族連れや、仲の良さそうなカップル、垣根や家並み、猫が居る屋根の下や、イチジクや柿の木達。
でもそこには、その風景の隣には、祥一郎と私、二人一緒の姿はもう見えない。

それでも何度も振り返る。あの頃の二人が居るのではないかと。



溜息が増えた。

以前の溜息は、疲れていたり、生活の苦しさからだった。

今は違う。仕事の合間、部屋で家事をしている時、風呂に入っている時、祥一郎はもう居ないのだと思うと、深い溜息が出る。



ひとり、部屋に居ると音が良く聞こえる。

雨の降る音、風の吹く音、時計の音。

部屋の外を通る車の音や、お喋りしながら歩く誰かの声。

祥一郎が居た頃は、私とあいつが立てる音、生活している音で満たされていたから、他の音など耳に入らなかった。

今は、私はひとりぼっちなのだと言い聞かせるように、あらゆる音が大きく聞こえる。



日常の何気ない行動や瞬間が様変わりしてしまった。

何をしても、何もしなくても、孤独というベールに包まれ、そこから逃げ出せる事は無くなった。



でも、たったひとつ、何も気にせずにできることがある。どんな癖がつこうと出来る事がある。

それは祥一郎を想い、大声を上げて泣く時だ。

その時だけは何も耳に入らず、他の事には気を取られることも無く、ただ祥一郎を想い、泣き叫ぶ。

このままずっとこうしていたいと思いつつ、泣き叫ぶ。

天まで届けと言わんばかりに、泣き叫ぶ。

今夜もそんな夜になりそうだ。

嬉しい。そんな夜だけは、祥一郎と私はまだ一緒に居るような気がするから・・・・・・・


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「風呂好き祥一郎」

2016年04月26日 | ひとりぽっち

祥一郎・・・・・・・

昨日はちょっと足を伸ばして、スーパー銭湯に行って来たよ。

先日、お前がいなくてあまりに寂しいから、職場の仲間とうちで飲み会をやって飲み過ぎて調子が悪かったから、酒を抜こうと思ってね。

お前にも献杯したけど、飲んでくれたかい?

お前と一緒に行きたかったスーパー銭湯。

風呂が大好きだったものね。

お前と暮らし始めて、お前が風呂に入らなかった日の記憶が無い。律義に絶対風呂には入っていた。


そうそう、あの初めて一緒に暮らした東京谷中のトタン屋根のボロアパートには勿論風呂が無かったから、毎日銭湯に通っていたね。

二人で洗面器に入浴用品を入れて、寒い日は息を白くして足早に通ったよね。まるで神田川っていう歌に出てくるカップルみたいに。

おかしかったのは、やっぱり二人はゲイだから、イケメンが風呂にはいってくると、お互い目配せしたり、きょろきょろしたり、そのイケメンの身体を隅から隅までチェック。
そして風呂からあがってから、

「おっちゃん、あんまりきょろきょろしたらあかんで。みっともない。」「なに言うてんの。おまえこそ。」
なんて言い合ったものだ。

おかしかったね。二人とも腐ってもゲイなんだと自覚したもんだった。

ポカポカに温まった身体で二人で仲良く帰り、部屋でアイスを食べるのが習慣だった。

本当に貧乏な生活だったけど、今となっては懐かしく楽しい想い出だ。

ちょっと出世して、風呂付のアパートに住むようになってからは、お前は食後必ずほぼ同じ時間に風呂に入ってた。

おっちゃんがどちらかというと20分位のカラスの行水なのに対して、お前はゆっくりゆっくり40分くらいかけて入浴を楽しんでた。

そして上がると、身体や顔に色々なクリームやボディローションを塗りたくって、顔パックもして、入浴はお前にとって一日で一番重要な儀式だというようにね。

入浴用の色々な石鹸や、バスクリンなんかも揃えて。とにかく風呂に関するこだわりは半端じゃなかった。

朝は朝で、朝シャンは必ずしてた。あれはちょっと薄くなってきた髪の毛の生え際に刺激をあたえていたんじゃないかとおっちゃんは睨んでたんだ。

そしてその後は、風呂掃除。
パンツ一丁で、隅から隅まで綺麗にしてくれてたよね。おかげでおっちゃんも清潔な風呂に入れていたんだ。

後で知ったけど、水周りというのは清潔にしないと悪いものが寄ってくるという説があって、それでお前は風呂掃除をしっかりやっていたんだと思う。
掃除の後は、寒い日でもちゃんと窓を開けて換気していた。

そうだ、ときおり考えていたんだ。
お前をいつか関東近郊の温泉へ連れて行って、そこで二人で新年を迎えられたらいいなあと。「そんな遠出はしんどいわ。」とか言うかもしれないけど、予約してしまえば絶対お前はついてきたはず。

結局それは言い出せずに、お前はもう逝ってしまったけれど。

足を少しは伸ばせる広いバスタブのあるマンションにはついぞ住めなかったけど、ごめんね。

それでもお前は少しでも入浴を楽しもうと、色々工夫していた。

風呂好き祥一郎・・・・・・・・・・


あの日・・・・・・お前が倒れて吐血して、体中どす黒い血だらけになってしまってそのまま病院に運ばれた。

おっちゃんは思ったんだ。

可能なら、意識の無くなったお前の身体を、風呂に入れてあげて綺麗に綺麗にしてやりたかったと。

だってお前のあの最期の日だけは、お前は風呂に入れなかったんだもの。

冷たくなっていく身体を懸命に温めてやりたかった。「祥一郎、祥一郎、戻ってこい!、戻ってくるんだ!」と叫びながら。

・・・・・・・・・・

お前は戻ってこなかった・・・・この世でお前が風呂を楽しむ姿はもう見られなくなってしまった。


大好きな風呂にはもう入れないのかな。それともお前の居る世界には、豪勢なローマ風呂でもあるのかな。それにお前は先に行っていた愛する人たちと一緒に入っているのかな。

そんな想像もしてみる。

祥一郎・・・・・・・

昨日行ったスーパー銭湯で久しぶりにおっちゃんは体重を計ったんだ。12キロ以上痩せていたよ。
貧相になった身体、そして顔は目が真っ赤で、悲しみが顔中に滲みついた表情をしていた。

おっちゃんはこの姿で生きて行くのかなと思った。それもいいさ。

それがお前を亡くした悲しみの結果なら、この身体と顔がお前を喪ったことを表現するなら、本望だとおっちゃんは思っているんだ・・・・・・・

祥一郎・・・・・・・・お前は今どこに居る?どこに居るんだい?・・・・・狭いうちの風呂だけど、好きなだけ入っていいんだよ。

祥一郎・・・・・・



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「ある若者との会話  慢心していた私」

2016年04月25日 | 何故死んでしまったの


あれはも15~16年くらい前、祥一郎と大阪で暮らしていた頃の事。

その頃の祥一郎と私はお互い仕事を持ち、プライベートは勝手な事をやって、貧乏ではあったがけっこう楽しく生活していた頃だった。

勝手な事をやっていても、狭い部屋だったが帰る場所はお互い一つだった。
まあ男女の夫婦で言えば、イケイケモードが終って、熟した関係になった頃かもしれない。


そんなある夏の夜、あまりはっきりと覚えていないが、なぜか私はコインランドリーで洗濯をしていた。

祥一郎が友人と遊びに行っていたか、実家に帰っていたかそんな時だったと思う。

小汚いコインランドリーに、ひとりなかなかのイケメンの若者が漫画本を読みながら、洗濯が済むのを待っていた。

いやらしいゲイの性癖で、一時ひとりきりだった淋しさもあったのだろう、私はその若者に話しかけてみた。別にどうこうしようという下心など全く無く、単なる暇つぶしだったのだが。

「・・・・・お兄さん、この辺の人?」

大阪の人は見知らぬ人から話しかけられても、けっこう相手になってくれるところがあって、その若者も私を特別に警戒することもなく、答えてくれた。

「はい、そうです。」

「ひとりで住んでるの?」

「はい。ずっとひとりで住んでます。」

「淋しくない?」

「いいえ。全然淋しくないです。なんでも好き勝手にできるし、気楽だし、ひとりがいいです。」

「でもまだ若いのに、恋人とか欲しくないの?」

「全然欲しくないです。ひとりがいいです。ひとりが一番です。」

確かこんな会話をしたと思う。

(何かちょっと変わった若者だなあ、まだ若いのに、友人とか恋愛とか、まだまだ楽しめる年頃だろうに、欝屈してるのかな、それとも対人関係が上手く出来ないタイプなのかな・・・・)

と、少々その若者を憐れに思った記憶がある。

あの若者はまだひとりで生きているのだろうか。
そして、寂しいと感じることも無く、人に依存する事も無く、別れの悲しみを経験する事も無く、ひとりの生活を楽しんでいるのだろうか。

もしそうだとしたら、あの時あの若者を憐れんだ私が負けだったことになる。

私が勝手に負けたと思うだけで、一回会ったきりのほんの数分会話しただけのあの若者にとっては何の関係も無い事なのだが、あの「ひとりがいいです。」と言い切ったあの覚悟に、私は負けたと思う。

妙にあの若者との会話を最近思い出すのだ。

そう、あの時私には祥一郎が居て、ひとりじゃない、私は孤独じゃない、人の温もりを知らないなんて、なんて可哀想な若者なんだろうという奢りがあったのではないか。
今、そう思うのだ。

確かに私には20数年間の宝物のような祥一郎との暮らしがあった。

しかしそれを失い、この歳になってたったひとりで、生きる意味も無くなり、方向も見えなくなってしまった。

あの、孤独をものともせず、かえってそれを楽しむ覚悟があったあの若者。

祥一郎と寄り添い、支え合い、温もりを感じ合う経験をしてしまった私に、あの若者のような強さはもう無い。

愛する人を得ることは素晴らしい。

でも、それを喪うリスクに思いを馳せなかった私は愚かだったのだろう。

出逢わなければよかったというそんな話ではなく、愛する人とこれからも生活できるはずだと漫然と油断していた自分が愚かだったのだ。

祥一郎・・・・おっちゃんはお前がいつも居てくれるという安心感に胡坐をかいて、慢心していたんだね。

お前があんなに突然居なくなるなんて考えもしないで・・・・

もう何もかも遅い・・・・・それが悲しく、悔しいよ・・・・・

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