何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

トレーニングセンター  祥一郎の足跡

2016年04月24日 | 何故死んでしまったの


祥一郎・・・・・・

きょうはね、ちょっと思いたって、お前が月に何度か通っていたトレーニングセンターを探して行ってみようと思ったんだ。

区内の町名のついた体育館にあると聞いていたから、調べたらすぐわかったよ。

でも、同じ区内とはいえ、よくこんな遠くまであのボロママチャリで通っていたね。

おっちゃんちょっと迷ってしまったよ。

やっとみつけた〇〇〇体育館。

そこの受け付けでまず聞いてみたたんだ。

「ここは、会員制でカードを発行したりするのですか?」

その質問には月極めで使用する人はカードがあるらしいけど、好きな時に使用する分には一回だけのチケットを購入して、番号を記入するだけらしい。値段は300円
だから勿論ロッカーなんか使用してなくて、私物も預けて無かったね。


体育館に併設されたそのトレーニングルームに見学者として行ってみたよ。

まあ想像していたとおり、それほど広くも無く、うらぶれたトレーニングルームだった。
機械もそれほど多くは置いて無かったね。

でも土曜日だということもあって、結構な人が汗を流していた。

そこに立っていたおそらくインストラクターだと思われる若い女性に聞いてみたんだ。

「ここは、使用するのに名前を記入したりするんですか?

「いえ、チケットを買って頂いて、その番号を記入していただきます。」

ということは遡っても、お前の名前を記入した参加者名簿は無いということだ。

だから一瞬ちょっと迷って、そのインストラクターのお姉さんに、お前の画像を見せてみたんだ。

「あの・・・・こんな人を御存知ですか?」

「えっ?ちょっと私は・・・・あれ、この二枚の画像、同一人物ですか?」

「はい、そうです。」

「あっわたし、知ってるかも知れません。真っ黒に日焼けして、いつも笑顔の方ですよね?」

「多分そうだと思います。」

「お探しですか?」
「いえ、実は・・・・この人、去年末に亡くなってしまって。もしかしたら私物でも預かってないかと思って来て見たんです。」

「えええ?そうなんですか?まだお若いでしょ?」

「・・・・・46歳でした。」

「そ、それは・・・・・・・」

「・・・色々とお世話になりました。」

最後の方はおっちゃん、涙声になってその場を後にしたよ。

もしかしたらお前の名前の書いた名簿くらい残っていないかと思ったけど、無駄だったね。

帰り路、思ったんだ。

お前は貧乏は貧乏なりに、好きなトレーニングを如何に安くやろうと、ここへ通っていた。。

もっと近くにフィットネスクラブはあるけれど、月の会費がとても払える値段じゃなかったので、お前はやっと探したこの場所に通っていた。

一生懸命身体を鍛えて、一生懸命生きようとしていたんだね。

いじらしくて、可哀想で、哀しくて、淋しくて、おっちゃん帰りながら自転車に乗って涙が溢れてどうしようもなかったよ。

結局何もお前の生きた証の収穫はなかった。

唯一、あのインストラクターのお姉さんが覚えていてくれたことか。

なにやら先日書いた、近所のスーパーのお話しみたいだね。

でもうろ覚えでも、あのお姉さんが少しでも覚えていてくれたのは、おっちゃん嬉しかったよ。
きっとすぐ忘れてしまうだろうけど・・・・


お前が通って足跡を残した施設に行ってきて、少しでもお前を身近に感じたかったきょうの出来事だった。

もう遠くに逝ってしまった祥一郎、お前の存在をね・・・・・・・・



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「ゲイとしての苦悩、葛藤  そして幸せ」

2016年04月23日 | LGBT


ゲイであること、それは真正のゲイである以上、逃れられない。

ゲイであることは、別に特別楽しいわけでは無く、色々な苦悩や葛藤があり、肉親や親戚、、友人との関係、要するに人間関係に悩み、そして職場での立ち位置や、結婚やパートナー選び、老後の人生設計等々、非ゲイの人たちとはまた違った課題が山ほどある。

しかし繰り返すようだが、セクシャリティというものはおいそれと変われるものでは無く、基本的には一生付き合わなければならない。
その属性が嫌であろうとなかろうと。


祥一郎も、自分がゲイであることに少なからず葛藤や苦悩があったようだ。

それは彼のブログの記述や、SNSの呟きを読んでも推測できるし、私にも、日常生活でゲイであることでの悩みを口にしていたことがある。

「ほんと、なんでオカマってこんなに女々しいんやろ。」

「オカマってさあ、基本自分が一番大事なのよね。」

「なんでホモってこんなにネガティブなんやろか。」

等々、よく愚痴っていたものだ。

彼のブログやSNSでは、プロフィールはまるきりストレートの男性で既婚者で子供までいる設定になっていたり、或いはバイセクシャルで、別れた妻との間にやはり子供が居るという設定だったり、別人格を装っていた。

一方でツイッターでゲイ専用のアカウントをとり、友達を募集したり、部屋にゲイの友人を招いて私に紹介したこともある。
集める画像は、海外の男性ヌードが満載で、それをネタにツイッターも楽しんでいたようだ。

私も自分がゲイであるからこそ分かる。
ゲイである自分が、時々嫌になることがあったのだろうと。だからこそ非ゲイを装い、違う自分を演じていたかったのだろうと。

享楽的で個人主義、自分が一番大事で、迷惑をかけたりかけられたりするのが苦手、セックスはお手軽で、相手を探すのも刹那的、そういう面がゲイには確かにある。

それが故、老いて添遂げるまで一緒に暮らすゲイはごく一部なのだ。
まあこれは社会自体のゲイへの理解度とも関係があるが。

ゲイで無い人々は、テレビに出てくるオネエタレントや、カミングアウトしている有名人のゲイを色もの扱いして喜び、或いはボーイズラブの世界に憧れてマニアになったり、要は他人事なのだ。

市井の名も無い何の取り柄も知名度も無いゲイ、すぐそばにすぐ隣に居るかもしれない普通の男性のゲイになど、何の興味も無い。そういう風潮が少なくとも今の日本ではまかり通っている。

私は行きがかり上職場ではカミングアウトしているが、同僚や上司は「今はそんなのなんでもない。」とのたまう。
それは自分の事として悩んだことが無いから言えるのだ。自分の親が、子供が、妻が、夫が、LGBTのどれかだとしたら、本当に冷静で普通に接する事の出来る人がどれだけ居るか。

祥一郎も私もある程度歳を重ねたゲイだから、その辺のことは分かり切っていた。

自分がゲイであることが嫌になり、他の生き方もあったのではないかと夢想したり、別人格をネット上で演じてみせたりするのは、あながち稀なことではないだろう。いや、そういうゲイは想像以上に多いのかもしれない。

そして祥一郎は、逃れられないゲイとしての自分の人生、その今までの人生を振り返って、決して幸せな事ばかりでは無かったのはよくわかっていたのだと思う。寧ろ葛藤や苦悩の方が多かったと思っていたかもしれない。

・・・・・・・・
それでも祥一郎と私は一緒に居た。20数年も。

お互いそれぞれのゲイとしての価値観があり、それが交わることあれば、考え方の相違もあった。

それは当然であり、ゲイとて十人十色、当たり前だ。

でもひとつ言えることがある。

それはゲイであったからこそ祥一郎と私は出逢い、暮らし、愛し愛されたのだ。

社会的に法律的に何の保証も庇護も受けられないけれど、ゲイであった故に同性同士のカップル、パートナーとして長い年月を供に歩んで来たのだ。

畳を変えるようにセクシャリティという人間のひとつの属性を変えるわけにはいかない以上、それは事実として認め、誰にも非難される筋合いの無いものだ。

だからこそ私は、様々な葛藤苦悩がありつつも、祥一郎と出逢い暮らせたことを何物にも代え難い大事な人生の経験だと思っているし、幸せなことだと思っている。

そしてそれは今も続いているのだ。彼が天に召されてしまった今でも。

私は死ぬまでゲイとして、祥一郎を愛し、想い、悲しみ、悔み、そしていつか再会したいと願いながら生きて行くのだ。

祥一郎・・・・・・
おっちゃんはゲイでよかったよ。

だって、そうでなければお前とは出逢えなかったもの。

お前と出逢えて、おっちゃんのゲイとしての人生は初めて虹色に輝いたんだよ・・・・・。

心の底からそう思うんだ。

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体調悪化  狂った生活のリズム

2016年04月23日 | 死別体験

 祥一郎が亡くなってから、4ヶ月が経とうとしている・・・・ たった4ヶ月・・・・何も変わるはずがない。

祥一郎を喪った、ありとあらゆる負の感情は一向に小さくならず、何かをして少しは忘れようと足掻いても足掻いても、それが終れば元の悲しみに取りつかれた壮年の男に戻ってしまう。

ここへ来てまた体調を崩してしまった。 胃から腹部にかけて耐えられない痛みを感じ、下痢も併発。便の色も血が混じっているようだ。

医者にはウイルス性胃腸炎だと診断された。 勿論仕事には行けるはずも無い。

あれから私の生活は乱れに乱れている。

食事は、朝、昼共に小さなパン一個のみで済ませ、夜はコンビニ弁当やレトルトのカレーなど、およそバランスのとれた食事とは言い難い。

しかし、何かをまめに作って、色々考えて料理を作ろうという気にならないのだ。 野菜不足、偏食、粗食・・・・・ そして感情を抑えようと心療内科でもらった薬を多用し、そうでないときは酒を煽る。

体調を崩さない方がおかしい生活になってしまった。 ただでさえ不規則な仕事で、健康な人でも体調管理の難しい介護の仕事。

これではこの先、続けて行けるかどうか。 二人で暮らすということは、生活の質を整えなければやっていけない。そして食事も二人分となると、色々と気配りした料理を作るものだ。

そう、あの頃は生活にリズムがあった。 今は、ひときっきりになり、電池の切れかけた時計の秒針のように、進んでは止まり、止まっては進むというような生活になっている。規則正しいリズムなど全く無くなってしまった。

祥一郎の昼寝用に新調したソファーで横になり、痛みに耐えている。 こんなときあいつが居たら、おぼつかない手つきでお粥のひとつも作ってくれただろう。 そして早目に寝るよう、寝床を整えてくれただろう。 私は、そんな状態でもあいつの背中を見ながら、痛いだの苦しいだのと甘える事ができただろう。

誰かが傍に居てくれる・・・・ 体調の悪い時にはそれがどんなに心強いことなのか、今身を持ってそれを、逆の意味で強く感じている。

今は誰も傍に居ない・・・・・ 悲しみに耐え、喪失感に耐え、孤独に耐え、

そして体調悪化にひとりで耐える。そうするしかないのだから。

私はもう還暦まで残り4年だ。 今の悲しみのどん底のような状態が何年続くかもわからない。

あいつが生きて居た頃の体調に戻る可能性は低い。

愛する伴侶を亡くした人は、あまりの悲しみの為に自らも体調を崩し、やがて遅からず後を追うように自分も死んでゆくケースが多々あるという。 自分がそうなるならそれでまったくかまわない。


ただ、できるならあまり苦しまずに、安らかに祥一郎の後を追いたいものだ。そして「祥一郎、今おっちゃん帰ったよ。」と、にっこり笑ってあいつを抱きしめたい・・・・・・。 にほんブログ村 家族ブログ 死別へ


面影を探し、死を理解する

2016年04月22日 | 喪失感



道行く人々の後ろ姿。

あいつの面影を探す。

短髪で小柄な男性を見かけると、早歩きして振り返る。

私がチラと見ているのを気付かずに通り過ぎる人、私が見ているのに気付き、怪訝な顔をする人。

そんなときは急いで目を逸らし、何もなかったフリをする。


前方から色黒の若者が歩いてくる。

凝視はしない。横目で焼け具合や顔立ちを確認する。どこかに似たところがないかと。

目鼻立ちのはっきりした男性が歩いてくる。

あいつの大きかった目や鼻と比べる。別に似ても似つかぬことに残念になり情けなくなる自分。


知らない街を歩く。

もしかしたらあいつがこの街のどこかで歩いているんじゃないかと見まわす。

だって、私の居る所、あいつが居たんだから。

何年も、何十年も。

あいつが生きていたからひとりで出掛けてもどんなに遠い街に行っても、絆は弧を描いてビルや山や海を越えて繋がっていたんだ。

帰ったらこんなことがあったよと話そう。

帰ったら、この疲れを半分持ってもらおう。

そしてあいつの背中を見て、なべてこの世はことも無しと感じよう。

私の出掛けた先の話をすることも無く、あいつの話を聴こう。

そうやって二人で生きてきた。



孤独・・・ひとりきり・・・あの頃の二人に無かった言葉。

今はそれのみ。

それのみが私の周囲を覗きこむ。じっと私を凝視している。

私を押さえつける。もっと俯け、もっと項垂れろと。

私はそれに抗えず、首や肩が痛くなるのも構わず、アスファルトの地面を凝視しながら歩く。

まるで小さな虫けらのように、地面のみをみて歩く。

違うのは、何かを探しているからではない。

前を向いても、上を向いても、祥一郎の姿はもう永遠に見えないから。

祥一郎は私の心の中に生きている?
では、そうであれば、心の中で生きているのであれば、何故こんなに悲しいのだろう。なぜこんなにも寂しいのだろう。なぜこれほど後悔しているのだろう。

もうあいつの肉体が無いのは理解している。声も聞けず肌の温もりも感じられないこともわかっている。

でも心の中で生きているのなら、少しは前を向けるはずではないか。

やはり祥一郎は死んでしまったんだ。
どんな意味であろうと死んでしまったんだ。

心の中にあるのは、膨大な祥一郎の想い出と面影だけだ。

あいつが生きているのなら、きっとどこかの世界で生きているのだろう。

私はそれを探さねばならない。

私が生きていても死んでしまっても、祥一郎が生きている世界を探さねばならないんだ。

そして必ず探し当てて、泣きながら喜びながら小躍りしながら祥一郎を強く抱きしめるんだ。

祥一郎・・・・

その時まで待っていてくれるよね・・・・・・


在日コリアンの私  日本人の祥一郎

2016年04月21日 | 何故死んでしまったの

私が在日コリアンであることは、特別祥一郎にカミングアウトした覚えも無く、肩肘張らして「実は・・・・」なんて告白したことも無い。

長年連れ添っていたら、そんなことは隠しようはなく、二人の間ではいつの間にか周知のことになっていた。


私も別に隠すつもりも毛頭無く、生活の中でコリアンらしい面を普通に出していた。

キムチは欠かさないとか、何か感嘆したときに「アイゴー」とつい口に出たり、テレビに出てくるハングルを普通に読んでみたり。

祥一郎もそんな私の属性をごく普通に受け止め、興味深いことが有ったら私に尋ねてきていた。

「これ、なんて読むの?どう言う意味?」

「おっちゃんの本名は何て言いうの?」

「このキムチは美味しいね。」

「あの韓国コスメ、ちょっと粗悪品だね。」

等々、日常的に在日やコリアの話題で会話していた。

まあ偏見や差別的感情があったら、20数年もの年月を一緒に暮らせはしないだろう。

私の影響も多少はあったのだろうか。

あの韓流ブームの時期には、祥一郎は韓国ドラマにかなりはまっていた。

まずはやはり、「チャングムの誓い」から始まる。
まあゲイというのは、女同士のドロドロとした足の引っ張り合いが常の、大奥のようなドラマが好きだからというのも理由だろう。
必ず録画して、二人一緒にドラマに出てくる女優をああでもないこうでもないと批評していたものだ。

次は「ファン・ジニ」とか「イ・サン」とか、次々にはまっては喜んでいた。

同時期に、韓国コスメにも興味を持ち出し、まあ安いというのもあったのだろうが、通販で購入したり、新大久保に出掛けて行ったりしていた。

私はというと、まあ「チャングムの誓い」はそれなりに興味を持って鑑賞していたが、他の韓流ドラマやましてやコスメなどには興味は無く、在日コリアンにとって今更何をという立場だったが。


おかしくも、数奇な運命だと思う。

世が世なら、私は韓国で生まれそのまま韓国人として人生を送っていたはずだが、何の因果か、日本で韓国人として生まれ、そして日本人の祥一郎と出逢い、何十年もの暮らしを共にすることになった。

男女の関係であれば、国際結婚になったかもしれない。


日本人と韓国人、或いは在日コリアンのゲイカップルもそれなりに居るらしいが、私の周囲には居ない。

ともかくも、私は人間としての祥一郎を愛していたし、祥一郎もそれは同様だろう。

二人の間に、国籍や民族などが立ちはだかる余地など無かったのだ。

それはやはり強い絆があったからだと私は信じている。

ただ、祥一郎が亡くなる何カ月か前、生活の面で何かと有利な面があるので、ある人の提案で養子縁組の話を進めてみようかと思ったことが有り、外国籍の男性に、日本人が養子に入る場合、国籍がどう関係してくるのか考えたことはある。

結局それはあまりにも悲しい結末で、叶わぬこととなってしまったが。


「ほんとに、これだからチョンは。キムチ臭いのよね。」

「何を言うジャップ。お前こそぬかみそ臭いわよ。」

などと、聞く人が聞いたらびっくりするような差別用語でふざけ合ったりしたことも。
そこには侮蔑など微塵も無く、単に戯れていただけなのだが。

そして、どちらかと言うと祥一郎の方が、私の中にある、異文化的価値観を興味を持って楽しんでいたのだろう。

私は今でも、韓国料理、例えばチヂミやソゴギクッ(韓国式肉スープ)をたまに作る。
彼の死によって激痩せしたが、韓国料理ならなんとか少しは食欲が出る。

しかし一緒に食べてくれるあいつはもう居ない・・・・・・

私に「チョン。」と言ってふざけるあいつはもう居ない・・・・

コスメの箱に書かれたハングルを読んでくれと言うあいつはもう居ない・・・・


祥一郎・・・・・

本当はね、いつかおっちゃんも行ったことの無いソウルへお前を連れて行って、明洞辺りのコスメ店をハシゴさせたかったんだ。

なんやかんや言いながらでも、きっと喜んでくれたはずだ。

ソウルくらいなら、貧乏なりにちょっと無理すれば行けたかもしれないね。

ごめんね・・・・そんな楽しい小旅行はもうできなくなってしまったね。

できていたら、最高の想い出になったかもしれないのに・・・・・・・

祥一郎よ、おっちゃんと再会したら、空を飛んで韓国へ行こうね。

二人で、手に手をとって・・・・・・・・・


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