何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

かりそめの酒宴 そして宴の後の涙

2016年04月16日 | ひとりぽっち


部屋に人を呼ぶことが多くなった。

折に触れ、祥一郎のことを少しでも知っている人や、間接的に知っている人などは勿論のこと、今では
職場の同僚も呼んでいる。

毎朝「・・・・・・行きたくない・・・・」と思いながら重い腰を上げて何とか向かうあのくそ忌々しい職場にも、それなりに何人か気の合う同僚が居て、たまにこの部屋で飲み会をやっている。友人では無い、単なる同僚だ。

理由は一つ。

気が狂ってしまうようなほど大きくなった喪失感や孤独を紛らわせるため。

昨日もそんな同僚と元同僚ふたりを呼んで、ささやかな酒宴を開いた。

誰かに料理を作って食べさせたいという思いも有ったのかもしれない、心ばかりの酒のつまみを作ってもてなす。

本当は祥一郎を喪った私の辛く哀しい話を聞いて欲しいのだが、まったく面識も無く、あいつが亡くなるまでその存在さえ知らなかった人達にそんな話ばかりを聞かせるわけにも行かず、せいぜい線香を上げて貰って、後は仕事の話や、たわいも無い話をして酒宴を続ける。

そして酔いがまわったら街に繰り出して、カラオケ屋に行ったり、はしご酒に走ったりしている。

昨日は部屋での酒宴が終った後、同僚の知り合いの場末のスナックに行き、カラオケ三昧をして過ごした。

同僚達は勿論私が部屋に招待する動機はわかっていて、それでも付き合ってくれている。それ自体は有り難いことだ。
そんなひと時を過ごす時、少しは気が紛れているような気がする。

しかし、したたかに酔って酒宴がお開きになり、部屋にひとり戻ったとたん大きな揺り戻しがくる。

酒の力によって、一人になった時に感情のタガが外れてしまうのだろう。

酔った勢いで眠りにつこうと目論んでも、心が祥一郎への想いへ戻って行き、後から後から涙がこぼれ出す。

そして部屋で体操をしていたときに来ていたあいつの匂いの染みついたTシャツを引っ張り出し、顔面に押し付けて大声を上げ、嗚咽と涙で暗い部屋を満たしてしまう。

わかっているのだ。
そんな酒宴をしょっちゅう開いても、たいして付き合いも無い人達を無理矢理誘っても、かりそめの逃避にしかならないことを。

わかっていてそんな行動に走るのは、この先一年365日、たったひとりでこの部屋で過ごすことが途方も無く恐ろしく、それこそ精神に本当に異常をきたすのではないかとおののいているからなのだ。

今はこの部屋が、たいして広くも無い2Kの部屋が、夜になると真っ暗で大きく広い廃屋になった屋敷のように感じる。
その真ん中にひとりっきりで俯いて、じっと耐えている自分。

そんな自分の置かれた状況から逃げたくて、これからも折に触れ人を呼んでかりそめの酒宴を開くことだろう。

それが終ったらまた揺り戻しが来るとわかっていても。

私は弱い・・・・・・私は愚かだ・・・・・・

思う事がある。

祥一郎を喪った悲しみを真正面から受け止め、逃避せずにその中で生きていける強さが欲しいと。

来る日も来る日も涙を流し、髪を掻き毟り、地べたに這いつくばって祥一郎の名を呼びながら
一日24時間、一年365日が過ごせる強さが欲しい・・・・・・・・・・・

祥一郎・・・・・

おっちゃんはお前を喪った悲しみ苦しみにどっぷり浸かって、それでもこの世に常命の尽きるまで
存在し続け、その後必ずお前に逢えるのなら、そうすべきなのかな。

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仕事に邪魔されたくない 祥一郎を想う時間

2016年04月16日 | 菩提を弔う
一日の通常の業務が終わる。しかしその後には山のような、やれご利用者の記録だの、介護経過だの、
委員会の仕事だの、ご利用者の一日の様子だのというパソコンに打ち込むデスクワークが待っている。勿論その分の残業代は出ない。

以前はそれでも、そのサービス残業を2時間から3時間平気でこなしていた。

しかし今は、通常の業務が終わると、ものの30分位で会社を辞する。

疲れ方が以前と全く違うのだ。急激に12キロ以上も痩せたせいか、精神薬のせいか。

きょうも上司に、「きょうは1時間残業と思っていて下さいね。」と、当然のように告げられた。こちらの都合も聞かずに。用事があるかどうか一応聞くのが筋ではないだろうか。
以前の飲み会で、私の祥一郎の死と自分のたかが失恋を同列に扱った女上司だ。

私は「ええ?残業ですか。きついです。」と言ったら、「・・・・・じゃあいいです。」

「いいえ、やれと言うならやりますよ。業務命令なんでしょ。」

上司は無言だった。その後、更に上の上司に泣きついたのがありありとわかる。

泣けば上役にとりなしてもらえると思ったのだろうか。めんどくさい女上司だ。

別にやりたくてしている仕事でもなく、微塵も楽しいとも愛しているとも言い難い仕事、馬車馬のように働いて上を目指す気持ちなどさらさら無い仕事。

そんなものに、私の大事な、祥一郎の死によって更に大事になった時間を割きたくない。

した方がいい仕事を後日に回して、最低限の残業をしてさっさと帰宅する。上司にどう思われようが知ったことか。

そんな仕事ぶりのきょうこの頃。


痩せて疲れきった身体をなんとか鞭打って自転車をこぐ。坂道の多い帰り路が、以前より更に過酷になっているのがわかる。

春に咲く花々、穏やかな季節の風をできるだけ目に入れないように感じないように、下を向いて自転車をこぐ。

常夜灯をつけていくのが常になった部屋に帰宅し、照明を点け、祥一郎の遺影に「ただいま。」と呟く。

遺影を見つめ続けながら、ひとつひとつ祥一郎との暮らしの想い出を紐解いていく。

そして指が動くまま、心のまま、それを文章にしていく。

今はその時間が私の一番大事な時間だ。いや、今後ずっとそうかもしれない。

文章を書くうち、涙が滲む、悲しみに溺れそうになる、孤独感に押しつぶされそうになる・・・・・・

それでもそんな時間が今は一番大事だ。

そんな大事な時間を、くだらない仕事に邪魔されてたまるものか。

分かって欲しいなどと言わない。そもそも分かって貰おうとしても無駄なことだと思うから。


祥一郎の生きた証を残すこと。

それがあいつの望みだったのだから、それを私は引き継ぐ義務がある。

それしかできない。そんなことでしか、あいつが20数年間の年月を私に与えてくれた事に対する恩返しができない。

それを邪魔するものは、何者をも排除するんだ。

祥一郎・・・・・・・・

おっちゃんのこんな生き方をお前はどう思う?

「おっちゃん、ほどほどにしときや。うちのことはもうええんやで。」

なんて言うはずが無いよね。

「おっちゃん、ありがとう。うちのこといつまで忘れんといてや。」

って言うに決まってるよね。

忘れるものか。お前はおっちゃんの全てだったのだから。おっちゃんの身体と心は、お前と共にしか存在し得なかったのだから。
涙を流す度、お前の証を文章にする度、それをますます自覚していくんだ。

おっちゃんの人生で何かを残せるとしたら、お前の証を残すこと、それしか有り得ないんだよ。祥一郎・・・・・・・・・・・


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ゲイであることは恥なのか?  私はそれを許さない

2016年04月14日 | LGBT


ゲイであることは、恥なのか。
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祥一郎が亡くなってから、何年も何十年も音信不通だった私の昔の知り合いに連絡を取ることが多い。

勝手なものだ。自分が悲嘆にくれているときだけ、突然連絡するのだから。

しかしそれを止められない。少しでも祥一郎のことを知っている人にこの悲しみ、あいつの無念さを知ってもらいたい、その一念で今でも古い電話帳を引っ張り出しては連絡している。

その中でもう40年も前になる、私が初めてゲイバーで勤めたその店のマスター、今はもう引退した同じ在日コリアンの男性がいる。

祥一郎の顔も知っていて、今回のこの悲劇に心を寄せてくれた。

しかし電話で話した内容の中で、ひとつ慄然とさせられた一言があった。

祥一郎の実家から、未だ墓にお骨を入れたという連絡も戒名をつけたという連絡も無いという話をその元マスターとした。

事実、祥一郎の父親からは、最後に連絡をとった際まだお骨は家に置いたままで、遺品整理も手つかず、勿論戒名もまだという話は聞いた。
暖かい季節になったらぼちぼちやりますから急かさないでください。連絡しますから。という話ではあった。

しかしその元マスターの言った言葉、

「連絡は無いと思うで。だって実家の恥やから。」

そのひとことが、私に突き刺さった。

どこの誰とも知らない人間、それも男と自分の息子が20年以上も一緒に暮らして、そしてその部屋で死んでいった。

それは祥一郎の実家、とりもなおさず父親にしてみたら恥なのだろうか。

以前書いたと思うが、私の方から一度実家にお邪魔して、今までの生活の事、私と祥一郎の共に過ごした人生のことをお話ししたいと提案したことがある。

それはやんわり断られた。加えて、今回のことは親戚一同にも連絡していないという話もしていた。

あれから三ヶ月余りが過ぎた。

未だ父親からは何の連絡も無い。

それも含め、色々な事も考え合わせると件の元マスターの言った通り、祥一郎の父親は、私と祥一郎のことを口外したくない、知られたくないと思っているのだろうか。

葬式も出さなかったのはそれが理由なのだろうか。


もしかしたら、私に連絡せずに身内だけでひっそりと葬式を挙げたのではないか、20数年間自分の息子がどこでどうしていたのか、親類縁者に適当にごまかしているのではないか。

あの最期の日。
火葬場で泣きじゃくっていた私の背中をさすってくれた祥一郎の実の父親の行動は、ポーズだったのだろうか。

弟さんの一言、「俺達よりも長く一緒に暮らした貴方にみとられて、兄もよかったと思います。」
という言葉は、取り繕っただけなのだろうか。

疑心暗鬼は膨らんでいくばかりだ。

長く一緒に暮らしたゲイのカップルと、そのお互いの実家や親類縁者との関係。

今の日本では明らかに複雑で、おいそれと公にできないことは事実だと思う。

しかし、もし祥一郎の父親が私達のことを少しでも恥だと思っているなら、そして話し合う機会があったなら、私はそれに反論し立ち向かうだろう。

そしてこう言うだろう。

「お父さん、確かにそちらにとっては難しい複雑な心境になる事かも知れない。でも、ひとりの人間ともうひとりの人間が、例え同性同士と言えども20数年間苦楽を共にし、家族同然に暮らしたことは消せようのない事実なのです。それは貴方がどう思おうと、事実として厳然としてあったことなのです。
貴方がどう思うかは貴方の自由です。でも、私はこのことに対して卑下も一切しないし、貴方に悪いとも思いません。寧ろ貴方の息子を家族として、かけがえのないパートナーとして、分かち難き伴侶としてこんなにも愛したことを誇りに思っています。」と。

恥だと思うなら思うがいい。

しかし、私達のあの温かく煌めいていた年月を、恥の一言で片づけるのだとしたらそれは自分自身の尊厳が低劣なものだということを思い知るがいい。

祥一郎・・・・・

おっちゃんはお前の父親が、そんな人では無いと祈るよ・・・・・・・



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母と再会  そしていつか三人で・・・・・

2016年04月13日 | 死別体験
祥一郎・・・・・・・・・・

お前の母親が亡くなったのは何年前だっただろう。

血圧が高く、確か頭部のどこかの血管が切れ、急死だったと記憶している。

本当に傍で見ているだけでこちらも泣けてきそうなくらいお前は悲しんでいて、人目も憚らず泣きながら実家に帰って行ったね。

お前は本当にお母さん子だった。

ツイッターにも「母が亡くなってもう二年、まだ恋しい自分が居る。」なんて呟きもみつけた。

父親と電話で口論していたときも、「だってお母さんをまた殴るやん。」なんて泣きながら父親を非難し、母親を庇っていたのを思い出す。

私はある意味羨ましかった。

母親を想える。その当たり前のことが私には出来なかったからね。
ろくでもない父親とどうしても別れたくて、物心もつかない子供三人を残して去って行った私の母。顔もまったく覚えていないし、母と子のエピソードも無い。

だからお前の母親に対する想いを、また母親の子への愛情をときおり垣間見ていて、その面では私より恵まれているなと思ったことも有る。

勿論お前の母親とは面識はない。

母親にはお前はゲイであることはカミングアウトしていなかったし、男性と同居していることは知っていたらしいけど、まさか私がパートナーですとも言えないしね。
まあゲイカップルにはよくあることだが。


亡くなった時の顔を見せてくれたことがある。優しそうな顔をした人だった。

何歳で亡くなったのかお前に聞きそびれたけれど、まだお若かったはず。

遺骨を一部持ってきて、必ず線香を上げていた。毎朝必ず。


しかし・・・・・・・・・・

まさかその愛する母親を亡くしてから、10年も、いや7~8年も経たない内に、今度はお前が逝ってしまうとは。

だからこそおっちゃんは本当に願うんだ。

お前があちらの世界で母と逢い、心穏やかに過ごしていることを。

お前を喪った悲しみはまだ一向に小さくならず、寧ろ大きくなっていき、巨大な喪失感に押しつぶされそうになる状態も酷くなっていくばかりだけれど、お前が母と笑顔で昔語りなどをして過ごしているなら、私の中で少しばかり安堵する面もある。

そしてたまに母に、「ちょっとおっちゃんの様子を見に行ってくるわ。」と言ってこちらに出掛けてきているのではないかと想像したりもする。

お前の46年の人生の半分ほどは私と一緒だったし、10年ほど大阪に二人で行ってしまい、なかなか母と逢えない時期もあったから、その分あまりできなかった親孝行をして欲しい。

いずれ私がそちらの世界へ行った時、改めてお前の母に挨拶し、誇りを持ってお前をどれだけ愛していたか、貴方の可愛い息子、祥一郎を喪ってどれほどの涙を流したか、話せる機会を作ろうと思う。
お前が居る世界ではもう何も包み隠す必要も無いだろう。

きっと笑って、「まあそれはそれは有り難うございます。お世話になりましたねえ。」とでも言ってくれるかもしれない。

そして三人で忌憚なく、積もる話や笑い合える話ができたならと願う。


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介護の仕事を続けることの意味  凍りつつある心と共に

2016年04月12日 | 悲しい



私の仕事は介護職員。

何度か書いたが、好きで選んだ仕事では全く無い。

あのリーマンショックによってその当時していた仕事をリストラされ、不景気の真っただ中、職探しに奔走することになった。

もうその頃私は齢50も過ぎていて、まともな仕事など有るわけがないと途方に暮れていた。

ハローワークに行っても、これがまともな大人の給料かという仕事ばかり。

祥一郎と二人、とても暮らしていける給料が貰える仕事など、目を皿のように探しても有りはしなかった。

有ったとしても年齢ではねられる、スキルではねられるのが目に見えていた。

そんな中ハローワーク職員に勧められ、給料が安いので悪名高い介護業界の中でも、まあましな職場を紹介された。まあ他に選択肢がなかったわけだ。

本棒がこれだけでも、まあ住宅手当やボーナスもこれだけ出るなら、以前よりかなり生活水準は下がるが、爪に火を灯せばやっていけるかなと応募し、採用されたのが今の職場だった。

介護業界の中でも最も過酷と言われる特別養護老人ホーム。そんなことは露知らず、見ず知らずの業界へ足を踏み込んだのだった。

御存じの方も多いと思うが、介護と言う仕事は感情労働だとも言う。

謂わば感情を押し殺して職務を遂行しなくてならない。

どんな仕事でもそういう面はあるだろうが、介護業界は特にその傾向が強い。
それもそのはず、認知症、それも重度の認知症の老人達何十人もを、数人のスタッフで相手しなければならないのだから。

普通にご利用者に接していても、暴言は吐かれる、暴力は振るわれる、介護拒否に遭う、陰口は叩かれる、やってもいない虐待をふれ回る、気が狂うほど同じ訴えを聞かされる、夜中の徘徊、尿漏れ便漏れの始末、数え上げればきりがない。転倒など事故が起これば全て職員の不注意。たとえ目がどうしても届かなかったとしても。

そして職員の対応がまずければ、モンスターカスタマーのような家族からの苦情がくる、それによって上司から注意を受ける、多大なストレスによって職員同士の人間関係は音がするくらいギスギスし、サービス残業をしなくては仕事が終らない。末端の職員は結婚するなどとても無理な収入。よって辞めて行く人は後を絶たない。

私はこの歳になってそんな業界に入ってしまった。

あれから三年半になろうとしている。おまけに介護福祉士の資格まで取ってしまった。

そして祥一郎の死。

この仕事は例えどんな扱いをご利用者に受けようとも、にっこり笑って天使のように振る舞わなければならない。

祥一郎の死によって今私の心は、厳冬期の湖のように周囲から急激に凍ってきている。

例えそこそこ気分が落ち着いているときでも、鏡で見る自分の表情は明らかに以前とまったく違う。
多大な悲しみが表情に染みついてしまっているのだ。柔和さなど微塵もない顔。

そんな状況で、にっこり笑って仕事ができるだろうか。
できない。今の私には到底できない。そしてその状態がいつまで続くかもわからない。

おそらく上司をはじめとした周囲からは、最低の介護職員の部類に入るだろう。そんなことは自覚している。

それなのになぜまだこの仕事を続けているのか。

理由は二つある。

ひとつは、今すぐこの仕事を辞してしまえば、私のこんな悲惨な状況にある程度配慮してくれている上司や同僚達に借りを作り返せなくなること。言葉は悪いが、その事がけったくそ悪い。

そしてもうひとつはただ生存するため。生存して祥一郎の生きた証を可能な限り残すため。
そんなこと、転職してもできるだろうという簡単な話では無い。私には選択肢が殆ど無いのだ。

祥一郎・・・・・

職場ではマスクが解禁になっても、おっちゃんは大きなマスクをかけて表情ができるだけ見られないようにしているよ。

おっちゃんの心はますます凍っていく。そして心が全部凍ってしまっていつかその重さに耐えきれなくなって割れてしまうのかもしれない。

お前と出逢う前の冷たい心とはまた違う、悲しみと喪失感を含み、お前を喪い精神が瓦解していくのに伴って凍っていくんだ。

もう誰も愛せない、誰にも優しくできない・・・・そんな人間になっていくのかもしれないね。

悲しみが多いほど人には優しくできるなんて、綺麗事には到底なりそうもないよ・・・・

お前はそこからおっちゃんを見ていても、「おっちゃん、もっと頑張って。」と言うのだろうか。

心の冷たい人間にはなりたくない。

でも、お前を喪ったあまりの悲しみの大きさに、おっちゃんの心は凍土のようになっていくのがわかるんだ。

それが悲しい・・・・・
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