祥一郎がもしガンだと本人も私も分かっていて、入院してそれなりに闘病生活をして、その後逝ってしまっていたなら、私はどう思い、どう感じていただろう。
(もしかしたら祥一郎は、もう駄目かもしれない。)
という覚悟が出来て、心の準備が整っていただろうか。 謂わば覚悟がある人になれただろうか。
それとも、これだけやるだけ一生懸命やったのに、何故逝ってしまったんだ?という悔しさや悲しみが湧き上がって、覚悟もなにも吹っ飛んでしまっていただろうか。
もしも、の話でしか無いけれど、そんなことも想像してみる。
死別した方の中でも、期間は様々あれど、闘病と看病の末、最愛の人を亡くした方もいるだろう。
そいういう方と、私のように覚悟も何も無く、あまりに予想だにしなかった結末を迎えた者との悲しみの種類は違うのだろうか。
前日まで、明日病院にかかれば何とかなる、まさかその日の朝に亡くなるなんて思いもしなかった。
そして突然倒れ、断末魔のような叫び声の後、私の膝の上で大量吐血しながら息絶えて行った祥一郎。
そんな経験を、場面を目の前で見てしまった私の、その後の感情の推移と、ある程度覚悟があった人たちとのそれは何か違う面があるのだろうか。
聞いてみたい気もする。
心の中では、「私の悲しみは貴方達よりもっともっと深い。」などとどこかで思っているのかもしれない。
でも実際は、違いは多少あるとしても、愛する者を亡くした悲しみ苦しみの大きさは、なんら変わる事はないのだろうなとも思う。
隣の芝生は青く見える、でも実際はそれほど変わらない、そういう事なのかもしれない。
今、グリーフカウンセリング、要するに最愛の人を亡くした人が受けるカウンセリングだが、それを受けようかどうしようか迷っている。
亡くし方はそれぞれ違いはあれど、似たような経験をした人達と語り合う事で、なにかヒントになればと思っているのだが。
そして、その後の生き方に違いがあれば、何故違うのか、違っていることでお互いに参考になることがあるのか、それも知りたいと思っている。
実際に本当に受けるかどうかはわからない。
ある程度お金もかかるし、金儲けの臭いがプンプンするような団体も有るようだし、さりとて安い費用でカウンセリングを受けても、それなりにしかならないような気もする。
とにかく4月頃には結論を出そうと思っている。
話は変わるが、
さきほど通院している心療内科に行って来た。
「先生、私は鬱なのでしょうか。」という問いかけに医師は
「抑うつ状態であるのは確かですね。」とのこと。
「あまりに大きなストレスが外部からかかってしまった為、そうなったのです。」とも。
では、私は普段どのように生活をしていったらいいのでしょうかという質問には、
「とにかく、家に一人で居ないことです。ますます落ち込みますからね。誰かと逢うなり、会話するなり、それができないなら、喫茶店でお茶を飲むだけでいいです。表に出ましょう。」
と。まあこちらの予想通りの答えで、わかりきった答えでしかなかった。
そんなことが休みの度にできたら苦労はしないのだけれど。
喫茶店でお茶を飲む?祥一郎が亡くなってから何度かそうしたけれど、楽しそうに会話する他の客を呆然と眺めて、よけいに疎外感、喪失感が大きくなったので、以来喫茶店のような場所には一人で近づかないようにしている。
結局、ひとりで部屋に居てもなんとか過ごせるように、間違ってもリストカットなどしないように自分自身で慣れていくしかないのだろう。
私の帰る場所は、この祥一郎と暮らしたこの部屋しかないのだから。
祥一郎の肌着を引っ張り出して、泣きながら眠りについた昨夜のようなことを繰り返しながら、
この環境になんとか折り合いをつけていくしかないのだろうな。
気が遠くなるような気もするが・・・・・・・・
祥一郎・・・・・・・・・・・・・・・ 逢いたいよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(もしかしたら祥一郎は、もう駄目かもしれない。)
という覚悟が出来て、心の準備が整っていただろうか。 謂わば覚悟がある人になれただろうか。
それとも、これだけやるだけ一生懸命やったのに、何故逝ってしまったんだ?という悔しさや悲しみが湧き上がって、覚悟もなにも吹っ飛んでしまっていただろうか。
もしも、の話でしか無いけれど、そんなことも想像してみる。
死別した方の中でも、期間は様々あれど、闘病と看病の末、最愛の人を亡くした方もいるだろう。
そいういう方と、私のように覚悟も何も無く、あまりに予想だにしなかった結末を迎えた者との悲しみの種類は違うのだろうか。
前日まで、明日病院にかかれば何とかなる、まさかその日の朝に亡くなるなんて思いもしなかった。
そして突然倒れ、断末魔のような叫び声の後、私の膝の上で大量吐血しながら息絶えて行った祥一郎。
そんな経験を、場面を目の前で見てしまった私の、その後の感情の推移と、ある程度覚悟があった人たちとのそれは何か違う面があるのだろうか。
聞いてみたい気もする。
心の中では、「私の悲しみは貴方達よりもっともっと深い。」などとどこかで思っているのかもしれない。
でも実際は、違いは多少あるとしても、愛する者を亡くした悲しみ苦しみの大きさは、なんら変わる事はないのだろうなとも思う。
隣の芝生は青く見える、でも実際はそれほど変わらない、そういう事なのかもしれない。
今、グリーフカウンセリング、要するに最愛の人を亡くした人が受けるカウンセリングだが、それを受けようかどうしようか迷っている。
亡くし方はそれぞれ違いはあれど、似たような経験をした人達と語り合う事で、なにかヒントになればと思っているのだが。
そして、その後の生き方に違いがあれば、何故違うのか、違っていることでお互いに参考になることがあるのか、それも知りたいと思っている。
実際に本当に受けるかどうかはわからない。
ある程度お金もかかるし、金儲けの臭いがプンプンするような団体も有るようだし、さりとて安い費用でカウンセリングを受けても、それなりにしかならないような気もする。
とにかく4月頃には結論を出そうと思っている。
話は変わるが、
さきほど通院している心療内科に行って来た。
「先生、私は鬱なのでしょうか。」という問いかけに医師は
「抑うつ状態であるのは確かですね。」とのこと。
「あまりに大きなストレスが外部からかかってしまった為、そうなったのです。」とも。
では、私は普段どのように生活をしていったらいいのでしょうかという質問には、
「とにかく、家に一人で居ないことです。ますます落ち込みますからね。誰かと逢うなり、会話するなり、それができないなら、喫茶店でお茶を飲むだけでいいです。表に出ましょう。」
と。まあこちらの予想通りの答えで、わかりきった答えでしかなかった。
そんなことが休みの度にできたら苦労はしないのだけれど。
喫茶店でお茶を飲む?祥一郎が亡くなってから何度かそうしたけれど、楽しそうに会話する他の客を呆然と眺めて、よけいに疎外感、喪失感が大きくなったので、以来喫茶店のような場所には一人で近づかないようにしている。
結局、ひとりで部屋に居てもなんとか過ごせるように、間違ってもリストカットなどしないように自分自身で慣れていくしかないのだろう。
私の帰る場所は、この祥一郎と暮らしたこの部屋しかないのだから。
祥一郎の肌着を引っ張り出して、泣きながら眠りについた昨夜のようなことを繰り返しながら、
この環境になんとか折り合いをつけていくしかないのだろうな。
気が遠くなるような気もするが・・・・・・・・
祥一郎・・・・・・・・・・・・・・・ 逢いたいよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
直ぐに悲しみが癒える訳ではありませんが、言葉に出して表現するのってとても大事だと思うんです。
祥一郎様の死という、あまりに悲しい形で知り合いましたが、これももしかしたら祥一郎様が遺してくれたものかも知れない、とわたしは勝手に解釈させて頂き、微力ながら出来る事をこれからも御手伝いさせて頂きたいです。
他の友人達がどのように思っているのかは今のところ解りません。嘗ては一緒に御宅に伺っていた友人も所帯を持ち、自然とそちらが優先となり、同伴出来なくなりました。それを薄情だと思う事もありません。他者の考えや言動はもう仕方無いとわたしは考えています。
わたしも覚悟のある人に為れなかった1人でしょう。
あ