何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

バタフライ効果とか  因果律とか

2016年04月11日 | 何故死んでしまったの
気分が最悪だ。今すぐにでも死んでしまいたい。仕事も休んでしまった。

ここ三ヶ月の中でも、最底辺の精神状態になっている。

何がいけなかったのだろう。薬の飲み過ぎが、或いは酒か。

それとも、溜まりに溜まったものが吹き出ようとしているのだろうか。

今の気持ちを正直に書いてみる。

祥一郎と私が出逢ったのは、彼があんな惨い死に方をする為だったのだろうか。

もし、私と出逢わなかったら、少なくともあんな最期を迎えることはなかったのだろうか。

私があいつと出逢い、してきたこと、思ったこと、感じたこと、その全てがあいつの死に繋がっていったのだろうか。

祥一郎にあんな死に方をさせるために、私はあいつに声をかけたんじゃない。

ボロアパートに一緒に住み始めたんじゃない。

愛し愛され、キスやセックスをしたんじゃない。

仕事を次々と変えざるをえず、住居も転々としたわけじゃない。

あいつを養うために嫌な仕事もしてきたけど、死なせる為じゃない。


私が生きて活動してきたことだけではなく、世の中の出来事、現象、情報が、全てあいつの死に結びついているような気がして、たまらなくやるせない。

バタフライ効果というのだろうか、因果律というのだろうか、

ある小さな出来事が、遠い先の、または遠い地の未来に大きな出来事を引き起こす、或いは、ひとつの現象や行動がまったく別の出来ごとを引き起こし、それは一見関係性が無いように見えるが、実は延々と関連性を持ち、やがてまったく予期できぬ、殆ど可能性を見出せないような出来ごとを引き起こす。

そんな理論を柄にもなく考えたりもする。

あの日あの時まったく偶然に祥一郎と出逢い、声をかけ、それだけで終わっていたら、あいつはもっと生きていたんだろうか。

あの地下通路をたまたま歩いていなかったら?

あの日、新宿で飲んで朝帰りしなければどうなっていた?

前夜に気まぐれに飲みに行こうなどと思わなかったら?

出掛ける事を止めていたら?

私のあの頃の生活が少しばかり違っていたら?

いやいや、そもそも私がこの世に生まれてこなかったとしたら、あいつはまだ生きていただろうか。

私が成したこと、思ったこと、感じたこと、全てがあいつのあの最期に繋がっていったのだったら、私は自分の存在が呪わしい。

あの時一緒に楽しく感じたこと、嬉しかったこと、喜んだこと、それさえもあいつの死と関連性があるのだとしたら。

きりが無いほど悪い方へ悪い方へ思考がなびいていく。

いや悪い悪くないではなくて、それこそが因果は巡るということなのか。

私との出逢いというひとつの因果が、そしてその後共に過ごした時間が、20数年後のお前の惨い死に様を招いたのだとしたら、何度も言うが、私は自分の存在を呪って、無きものにしたい気持ちになる。

祥一郎・・・・・・・・・・・・

お前の死は、おっちゃんがその元凶だったのか。或いはおっちゃんの存在が、お前の死のひとつの原因、要因だったのか。

それが真実なら、おっちゃんは、おっちゃんは・・・・・・・・・・・・・・・

そして・・・・お前はおっちゃんと一緒と出逢い暮らし、死んでいった。その因果が次は何を引き起こすのだろう。

それを考えると、身震いするほどの恐怖を覚える。

祥一郎・・・・バタフライ効果も因果律もこの世の摂理なのだとしたら、それはなんと残酷なものなのだろう。

変えようの無いものに、祥一郎も私も翻弄された結果、こうなってしまったのか。

あまりにあまりに悲しすぎるよね・・・・・・

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