気分が最悪だ。今すぐにでも死んでしまいたい。仕事も休んでしまった。
ここ三ヶ月の中でも、最底辺の精神状態になっている。
何がいけなかったのだろう。薬の飲み過ぎが、或いは酒か。
それとも、溜まりに溜まったものが吹き出ようとしているのだろうか。
今の気持ちを正直に書いてみる。
祥一郎と私が出逢ったのは、彼があんな惨い死に方をする為だったのだろうか。
もし、私と出逢わなかったら、少なくともあんな最期を迎えることはなかったのだろうか。
私があいつと出逢い、してきたこと、思ったこと、感じたこと、その全てがあいつの死に繋がっていったのだろうか。
祥一郎にあんな死に方をさせるために、私はあいつに声をかけたんじゃない。
ボロアパートに一緒に住み始めたんじゃない。
愛し愛され、キスやセックスをしたんじゃない。
仕事を次々と変えざるをえず、住居も転々としたわけじゃない。
あいつを養うために嫌な仕事もしてきたけど、死なせる為じゃない。
私が生きて活動してきたことだけではなく、世の中の出来事、現象、情報が、全てあいつの死に結びついているような気がして、たまらなくやるせない。
バタフライ効果というのだろうか、因果律というのだろうか、
ある小さな出来事が、遠い先の、または遠い地の未来に大きな出来事を引き起こす、或いは、ひとつの現象や行動がまったく別の出来ごとを引き起こし、それは一見関係性が無いように見えるが、実は延々と関連性を持ち、やがてまったく予期できぬ、殆ど可能性を見出せないような出来ごとを引き起こす。
そんな理論を柄にもなく考えたりもする。
あの日あの時まったく偶然に祥一郎と出逢い、声をかけ、それだけで終わっていたら、あいつはもっと生きていたんだろうか。
あの地下通路をたまたま歩いていなかったら?
あの日、新宿で飲んで朝帰りしなければどうなっていた?
前夜に気まぐれに飲みに行こうなどと思わなかったら?
出掛ける事を止めていたら?
私のあの頃の生活が少しばかり違っていたら?
いやいや、そもそも私がこの世に生まれてこなかったとしたら、あいつはまだ生きていただろうか。
私が成したこと、思ったこと、感じたこと、全てがあいつのあの最期に繋がっていったのだったら、私は自分の存在が呪わしい。
あの時一緒に楽しく感じたこと、嬉しかったこと、喜んだこと、それさえもあいつの死と関連性があるのだとしたら。
きりが無いほど悪い方へ悪い方へ思考がなびいていく。
いや悪い悪くないではなくて、それこそが因果は巡るということなのか。
私との出逢いというひとつの因果が、そしてその後共に過ごした時間が、20数年後のお前の惨い死に様を招いたのだとしたら、何度も言うが、私は自分の存在を呪って、無きものにしたい気持ちになる。
祥一郎・・・・・・・・・・・・
お前の死は、おっちゃんがその元凶だったのか。或いはおっちゃんの存在が、お前の死のひとつの原因、要因だったのか。
それが真実なら、おっちゃんは、おっちゃんは・・・・・・・・・・・・・・・
そして・・・・お前はおっちゃんと一緒と出逢い暮らし、死んでいった。その因果が次は何を引き起こすのだろう。
それを考えると、身震いするほどの恐怖を覚える。
祥一郎・・・・バタフライ効果も因果律もこの世の摂理なのだとしたら、それはなんと残酷なものなのだろう。
変えようの無いものに、祥一郎も私も翻弄された結果、こうなってしまったのか。
あまりにあまりに悲しすぎるよね・・・・・・
ここ三ヶ月の中でも、最底辺の精神状態になっている。
何がいけなかったのだろう。薬の飲み過ぎが、或いは酒か。
それとも、溜まりに溜まったものが吹き出ようとしているのだろうか。
今の気持ちを正直に書いてみる。
祥一郎と私が出逢ったのは、彼があんな惨い死に方をする為だったのだろうか。
もし、私と出逢わなかったら、少なくともあんな最期を迎えることはなかったのだろうか。
私があいつと出逢い、してきたこと、思ったこと、感じたこと、その全てがあいつの死に繋がっていったのだろうか。
祥一郎にあんな死に方をさせるために、私はあいつに声をかけたんじゃない。
ボロアパートに一緒に住み始めたんじゃない。
愛し愛され、キスやセックスをしたんじゃない。
仕事を次々と変えざるをえず、住居も転々としたわけじゃない。
あいつを養うために嫌な仕事もしてきたけど、死なせる為じゃない。
私が生きて活動してきたことだけではなく、世の中の出来事、現象、情報が、全てあいつの死に結びついているような気がして、たまらなくやるせない。
バタフライ効果というのだろうか、因果律というのだろうか、
ある小さな出来事が、遠い先の、または遠い地の未来に大きな出来事を引き起こす、或いは、ひとつの現象や行動がまったく別の出来ごとを引き起こし、それは一見関係性が無いように見えるが、実は延々と関連性を持ち、やがてまったく予期できぬ、殆ど可能性を見出せないような出来ごとを引き起こす。
そんな理論を柄にもなく考えたりもする。
あの日あの時まったく偶然に祥一郎と出逢い、声をかけ、それだけで終わっていたら、あいつはもっと生きていたんだろうか。
あの地下通路をたまたま歩いていなかったら?
あの日、新宿で飲んで朝帰りしなければどうなっていた?
前夜に気まぐれに飲みに行こうなどと思わなかったら?
出掛ける事を止めていたら?
私のあの頃の生活が少しばかり違っていたら?
いやいや、そもそも私がこの世に生まれてこなかったとしたら、あいつはまだ生きていただろうか。
私が成したこと、思ったこと、感じたこと、全てがあいつのあの最期に繋がっていったのだったら、私は自分の存在が呪わしい。
あの時一緒に楽しく感じたこと、嬉しかったこと、喜んだこと、それさえもあいつの死と関連性があるのだとしたら。
きりが無いほど悪い方へ悪い方へ思考がなびいていく。
いや悪い悪くないではなくて、それこそが因果は巡るということなのか。
私との出逢いというひとつの因果が、そしてその後共に過ごした時間が、20数年後のお前の惨い死に様を招いたのだとしたら、何度も言うが、私は自分の存在を呪って、無きものにしたい気持ちになる。
祥一郎・・・・・・・・・・・・
お前の死は、おっちゃんがその元凶だったのか。或いはおっちゃんの存在が、お前の死のひとつの原因、要因だったのか。
それが真実なら、おっちゃんは、おっちゃんは・・・・・・・・・・・・・・・
そして・・・・お前はおっちゃんと一緒と出逢い暮らし、死んでいった。その因果が次は何を引き起こすのだろう。
それを考えると、身震いするほどの恐怖を覚える。
祥一郎・・・・バタフライ効果も因果律もこの世の摂理なのだとしたら、それはなんと残酷なものなのだろう。
変えようの無いものに、祥一郎も私も翻弄された結果、こうなってしまったのか。
あまりにあまりに悲しすぎるよね・・・・・・
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