何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

退屈な時間の貴重さ・・祥一郎との時間

2016年02月27日 | 日記
土曜日………祥一郎が居た頃、明日は休みだとしたらひとりでどこかへ行きたい………そんなことを思ったこともあった。

でも大概は仕事で疲れきって、祥一郎の背中を見ながら家飲みし、その内ほろ酔いになって床につく……そして翌日になったら二人で買い物をして雑用をして、夕食をつくって終り。

退屈?せっかくの土曜日なのに二丁目くらい行きたいな……そんなこともあの頃は思ったこともある。

部屋で祥一郎と二人、お互い好きなことをして、時が過ぎて行く。退屈?そうかもしれない。でも、その退屈さが、どんなに貴重なものだったのか。


祥一郎が亡くなった今となっては、あの退屈な日常が、どれほど大事なものだったのか。
永劫の孤独、たった一人で老いていく余生、それに比べれば、あの二人で居た頃の退屈さが 愛おしくてたまらない………


あの愛おしく貴重な退屈さ………今はもう戻らない………祥一郎が還らぬ人となった今では………そして私はたった一人でその永劫の孤独と巨大な喪失感と来る日も来る日も闘って、いつかは敗北していくのかもしれない………

それが、それが私の命が尽きるということならそれもいい………祥一郎……寂しいよ………


祥一郎………ウサギはあまり寂しいと死ぬという……多分嘘だと思うけど、人間は、本当に悲しくて寂しくてどうしようも無ければ、死ぬようにできていたらいいのにと思う……

だって、だって………人は支え合って生きて行くものだう?その支えが亡くなったら、生きていけないじゃないか……

祥一郎……お前の死は、おっちゃんの死をも意味するんじゃないのかい? なんでこんな思いまでして生きていかなかなければならないの?



祥一郎………もうこの世に何の未練も無いんだよ………ただただ、お前に逢いに行って、謝りたい……愛しているって言いたい………この両腕でこの胸で、お前を強く抱きしめたい……


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