何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

寂しくなっていく部屋

2016年03月24日 | ひとりぽっち
しずつ、少しずつ部屋が殺風景になっていく・・・・・・・・


物を買わなくなった。
食べ物も、日用品も。それに伴う段ボールやビニール袋や、ちょっとしたゴミまがいのものまで。

雑然としていた部屋が、徐々にすっきりとしていく・・・・・・・


祥一郎・・・・・・あいつは物が捨てられない子だった。

ちょっとおしゃれな紙袋や、使い切った化粧品の瓶、どこかでもらってきた可愛い冷蔵庫に張るような磁石や、小さなぬいぐるみ。その他ありとあらゆる小物類。そういうものをいつまでもとっておくような子だった。


実は私もそういうところがあって、なかなか物が捨てられない。

お互いがお互いの、取っておいてもどうでもいいようなものを、「はよこんなもん捨てや。」とか言い合ったものだ。


でも、暮らしというものはそういうものなんだな。

一緒に暮らしていればその分、一緒に暮らしただけの物で溢れてくる。

思い入れもそれぞれ違うから、捨てるに捨てられないものも増えてくる。

それが今はもう二人分ではなくなった。


祥一郎のものでこれは絶対とっておくと決めたものは除いて、それでもあの子が食べかけた物などはいつまでもとっておくわけにはいかない。

靴箱にも未だにあの子の靴は殆ど置いてあるけれど、いずれ処分するかもしれない。


二人で暮らした分の、必要な物やどうでもいいようなものが、一人分になっていくのかも・・・・・・


いや、今はまだそれほど思い切ってあれもこれも処分しているわけではない。

時間をかけて、その内そうなっていくのかなと思いふけっているだけだ。

きょうあの子が取っておいた何枚もある、百貨店でもらってきたんだろう香水の匂いが染みついたカードを1枚捨てた。

もう匂いも無くなっていたから・・・・・・


そして、そのうちまた「ああ、私は一人になってしまったんだな。」という感情が湧いてくるんだろう。

あの子のものはみんなとっておけばよかった・・・・などと後悔するかもしれない。


今、迷っている。

祥一郎が残したもので、私が死ぬまで残しておくものはどれにしようかと。

まあいいさ。

時間をかけて、私の心の中で、祥一郎への想いがこれからどういう形になっていくか、それを待ってゆっくり決めて行こうと思う。

二人分の買い物はもうできなくなってしまったけれど、今はまだ、あの子の残したもの、使っていた物に囲まれて過ごしていたい。

ひょっとしたら殆ど何も捨てられずに、私は死を迎えるかもしれない・・・・・・・・

それもいいさ・・・・・・・・・・・


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