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思えば私は、幼少の頃から家族や親族がらみで、良い想い出というものがない。
父はDVの権化で、それが原因で妻に何度も逃げられ、そのDVは子供の私にも容赦なく振るわれた。
身体は年中青あざだらけだった記憶がある。
実の母親はそんな父から「私にも幸せになる権利が有る。」といってとっくに逃亡し、今は顔さえ覚えていない。もうすでに死んだだろう。
子供の始末に困った父は、私を自分の姉である私の伯母に何度も預けたが、子沢山のその伯母の家は狭く、私は身の置き所がなかった。
しかし父は何度もその伯母の家に預けようとし、ある時など私と弟二人だけで伯母の家の玄関に置き去りにし、自分は逃げるように立ち去ったことも有る。
玄関の前で私たちは途方に暮れ、伯母に「なんでまた来たの。なんでお父さんに泣いてついていかなかったの。」となじられたことも有る。
その伯母の家の従兄弟たちとも確執があり、「なんでこいつら追い出さないんだよ。」といわれたこともある。
身の置き所が無いのも当然だろう。
更に子供の始末に困った父は、大阪で独りで暮らしている80歳も間近の祖父に私たちを預ける。
その祖父の元で10代前半から後半まで暮らすことになるのだが、しかしその祖父と私は大変に折り合いが悪く、暮らしていく内にこのままでは祖父を殺してしまうという恐怖に駆られ、10代後半には家を出た。
それからというもの、私は実家に一切寄りつくことも無く、祖父とも兄弟とも著しく疎遠になっていった。
兄弟とも元々親の都合で離ればなれで暮らすことが多かったので、兄弟の絆とも殆ど無縁だった。
実家を出て以降なんとなく、「ああ、私はひとりで生きていくのだな。」とその頃から感じ始めていた。
仕事を転々とし、水商売を始め、20年近く努めたが酒で身体を悪くし、東京で転職、一から人生をやり直そうとした。
しかしその目論見もうまく行かず、東京の片隅で僅かなツテを頼って貸してもらったトタン屋根のアパートでひとり暮らすことに。
やっと見つけたコンビニの夜勤の仕事で爪に火を灯しながら暮らしていた。
その頃だった。祥一郎と出逢ったのは。
私が30代中盤、祥一郎が20代中盤の頃だった。
もちろん初めから共に暮らすつもりでいたわけではない。色々な条件や様々な偶然が重なりあい、3年、5年、10年と二人だけの年月が過ぎて行った。
両親の愛情も知らず、家族の温もりも知らなかった私に、祥一郎が徐々にそれを教えてくれて行ったのだ。そう、共に暮らしていく内に。
ひとり寂しく、世捨て人の如く、人に本当の愛情を注ぐことなど露ほども考えなかった有り得なかったのに、祥一郎との暮らしが私の人生を大きく変えていったのだった。
何をしても、何処に行っても、どんな境遇に遭っても、自分には傍に居てくれる人が居る。
その安心感や喜びを祥一郎が与えてくれていた。
私があと何年、70歳80歳まで生きたとしても、祥一郎と暮らした20数年の暮らしは、
私の人生において宝物のように光り輝いていくだろう。逆に言えばそれしか、私にはそれしかないのだ。あと何年無為な人生を重ねようとも………
そのひかり輝いていた、共に暮らした祥一郎との暮らしはもう無い…………
こんな幸せな暮らしはお前には過ぎたことだったのだから、20年もの歳月は贅沢である。これまでにせよと何者かの意志によって突然奪われてしまったかのように。
私には家族と共に暮らし、老いて行き、やがて添遂げるという人生は初めから用意されていなかったのか。
祥一郎………お前を喪った今、おっちゃんはそんなことを考える………
祥一郎………お前の死はおっちゃんの死を近づけてくれるのか……それとも何かを暗示しているのか………
教えておくれ………祥一郎………
父はDVの権化で、それが原因で妻に何度も逃げられ、そのDVは子供の私にも容赦なく振るわれた。
身体は年中青あざだらけだった記憶がある。
実の母親はそんな父から「私にも幸せになる権利が有る。」といってとっくに逃亡し、今は顔さえ覚えていない。もうすでに死んだだろう。
子供の始末に困った父は、私を自分の姉である私の伯母に何度も預けたが、子沢山のその伯母の家は狭く、私は身の置き所がなかった。
しかし父は何度もその伯母の家に預けようとし、ある時など私と弟二人だけで伯母の家の玄関に置き去りにし、自分は逃げるように立ち去ったことも有る。
玄関の前で私たちは途方に暮れ、伯母に「なんでまた来たの。なんでお父さんに泣いてついていかなかったの。」となじられたことも有る。
その伯母の家の従兄弟たちとも確執があり、「なんでこいつら追い出さないんだよ。」といわれたこともある。
身の置き所が無いのも当然だろう。
更に子供の始末に困った父は、大阪で独りで暮らしている80歳も間近の祖父に私たちを預ける。
その祖父の元で10代前半から後半まで暮らすことになるのだが、しかしその祖父と私は大変に折り合いが悪く、暮らしていく内にこのままでは祖父を殺してしまうという恐怖に駆られ、10代後半には家を出た。
それからというもの、私は実家に一切寄りつくことも無く、祖父とも兄弟とも著しく疎遠になっていった。
兄弟とも元々親の都合で離ればなれで暮らすことが多かったので、兄弟の絆とも殆ど無縁だった。
実家を出て以降なんとなく、「ああ、私はひとりで生きていくのだな。」とその頃から感じ始めていた。
仕事を転々とし、水商売を始め、20年近く努めたが酒で身体を悪くし、東京で転職、一から人生をやり直そうとした。
しかしその目論見もうまく行かず、東京の片隅で僅かなツテを頼って貸してもらったトタン屋根のアパートでひとり暮らすことに。
やっと見つけたコンビニの夜勤の仕事で爪に火を灯しながら暮らしていた。
その頃だった。祥一郎と出逢ったのは。
私が30代中盤、祥一郎が20代中盤の頃だった。
もちろん初めから共に暮らすつもりでいたわけではない。色々な条件や様々な偶然が重なりあい、3年、5年、10年と二人だけの年月が過ぎて行った。
両親の愛情も知らず、家族の温もりも知らなかった私に、祥一郎が徐々にそれを教えてくれて行ったのだ。そう、共に暮らしていく内に。
ひとり寂しく、世捨て人の如く、人に本当の愛情を注ぐことなど露ほども考えなかった有り得なかったのに、祥一郎との暮らしが私の人生を大きく変えていったのだった。
何をしても、何処に行っても、どんな境遇に遭っても、自分には傍に居てくれる人が居る。
その安心感や喜びを祥一郎が与えてくれていた。
私があと何年、70歳80歳まで生きたとしても、祥一郎と暮らした20数年の暮らしは、
私の人生において宝物のように光り輝いていくだろう。逆に言えばそれしか、私にはそれしかないのだ。あと何年無為な人生を重ねようとも………
そのひかり輝いていた、共に暮らした祥一郎との暮らしはもう無い…………
こんな幸せな暮らしはお前には過ぎたことだったのだから、20年もの歳月は贅沢である。これまでにせよと何者かの意志によって突然奪われてしまったかのように。
私には家族と共に暮らし、老いて行き、やがて添遂げるという人生は初めから用意されていなかったのか。
祥一郎………お前を喪った今、おっちゃんはそんなことを考える………
祥一郎………お前の死はおっちゃんの死を近づけてくれるのか……それとも何かを暗示しているのか………
教えておくれ………祥一郎………
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