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先日、武蔵国一宮である「氷川神社」を参拝して、自分の住む地域の氏神神社を参拝することは、神道の本流に沿った参拝方法という記事を書きました。
そして、この地域の神社を纏める存在が伊勢神宮であります。
今回、伊勢神宮を参拝して思うことは、神道は程度の差こそあれ「御霊信仰」が底流に流れていると感じました。
人に害をなす怨霊を沈めるために建てる神社もあれば、天候や生活のに関わる精霊を慰める神社、祖霊を祭る祖霊社など底流にそれがあるのは分かると思います。
要するに信頼し崇拝すべき存在では決してなく、恐れや畏れを以て適度な距離を置いて接すべき存在です。
唯一祖霊については、家族の一員として接すべきかもしれませんが、崇拝の対象にしては決していけません。
上記に書いた、「恐れや畏れを以て適度な距離を置いて接すべき」とは、崇拝せず「崇敬の対象」であると考えます。
要するに、先人や先輩を崇敬するように接すべきということです。
キリスト教でもカトリックでは、聖人崇敬は偶像崇拝にならなければ認められており、神道とカトリックの聖人崇敬は考え方として似ていると感じます。
偶像崇拝とは、神でないものを神として崇拝することで、これは誤りで罪です。仏教で云うところの「八正道」の始めの正見をしていないため、その後の行動全てが間違える結果となります。
プロテクトは聖人崇敬を含め故人に祈ることを禁止していますが、崇敬と崇拝を取り違えなければこの辺は寛容であってもよいと思います。
なぜなら、故人を尊敬する心は誰にでもあり、それを無理に禁止することは不自然と感じるからです。
プロテクトのそれに対する禁止は、崇敬と崇拝の取り違えが起こりやすく、偶像崇拝に陥るリスクが高いことへの懸念からと推察します。
「御霊」=神とした神道は、慣例として「崇拝の様式を取りつつ、その実は崇敬して御霊を沈めていること」をしているのであれば、偶像崇拝にはならず罪になりません。
変に力が入った考え方をするから、距離感を保てず崇拝になって宗教になってしまうのだと思います。
偶像崇拝という罪に対する、罰としての呪いは「必要以上の縛り」としてその個人に現れます。
神様信仰を利用しようとする方には、都合の悪い考えかも知れませんが、本当の神がいるのであれば、私は人間にこのように云うと思います。
そう考えると、日本の神道の神は御霊のため、宗教ではなく生活と密接に結び付いた「習俗」と云えると考えます。