トーキング・マイノリティ

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蒼の皇子-インドのファンタジー大作

2007-04-13 21:24:12 | 読書/小説
 インドのファンタジー小説『蒼の皇子』上下巻を読んだ。この作品で初めて著者アショーカ.K.バンカーの 名を知ったが、まず英国で人気が出た後全世界で三百万部が売れたそうだ。バンカーは1964年、インドのムンバイ生まれ。ジャーナリスト、コピーライ ター、TV・映画の脚本家を経て、インドの英語作家として、SF、ホラー、ミステリーなどの分野を開拓した。2003年、それまでの全キャリアを注ぎこ み、インドの叙事詩『ラーマーヤナ』21世紀版を発表した。

  あの大長編叙事詩を小説化したのだから、とかくスケールが大きい。私がこれまで読んだファンタジー小説はトールキンの『指輪物語』、『ハリー・ポッター』 くらいだが、欧米の同種の作品とはやはり色合いが違う。『蒼の皇子』にはサンスクリットだけでなく、インドの各言語からの単語や熟語がよく使用されてお り、インドに馴染みのない方が読まれたなら初めは戸惑うかもしれない。それでも一部の学者を除いてはインドに特に知識があるとは思えない欧米人にも受けた のだから、その面白さは抜群だ。

 他のファンタジー同様『蒼~』も善と悪、光と闇、敵との血みどろな激闘…という物語の基本は踏んでい る。英雄や固い絆を持つ同士、彼らを導き助ける魔法使い、裏切者などが登場し、大活躍というのも変わりない。しかし、聖仙や梵仙などと呼ばれる者がマント ラを唱え、魔法そのものの梵天力を駆使するのがいかにもインド。主人公ラーマも「七仙」の一人である見者法術師ヴィシュワーミトラに誓いを立てている。 「七仙」とは阿修羅に対抗するため梵天力を神々から与えられた至高の七人の聖仙。ヴィシュワーミトラは元はクシャトリアで「七仙」の中で最も若いが、それ でも2千年近くは生きているから、もはや神にちかい存在。

 一応法の下には平等を謳われるが、現代でも聖職者の絶対的権威があるのがイン ド。この物語でも聖仙にはマハーラージャさえ完全服従している。ラーマもヴィシュワーミトラに誓いを捧げたからには、皇子としての諸々の特権を捨て、指示 には絶対的に従わなければならない。それが義務とされる。ヴィシュワーミトラもラーマにクシャトリアとしての義務(ダルマ)を果たすよう命じる。

  信仰心の厚いインドにはお祈りを欠かさない夥しい人々がいる。もし身内が難病に罹っても、祈りを上げても家族を助けることなど出来ない、だから祈りをして も無駄、と思う人が日本なら少なくない。この物語にも病に倒れた父王のために祈ることを疑問視する若い皇子がいる。そんな彼に対し、導師は激しい叱責をす る。父のために祈るのではなく、自分自身のために祈れと。祈りは危機の時にあって魂を浄め、いかなる難問にも正面から立ち向かう用意を整える、負のエネルギーを正のエネルギーへと転換せよ、父の死が避けられぬ事実を品位を保ち、不抜の意志をもって己が受け入れられるように祈れ、と諭す。この教えには驚かされた。

  『蒼~』で唯一苦笑させられたのは、忍者の起源がインドと匂わせる記述があることだ。ラーマの祖国コーサラ国の精鋭部隊は人目につかず戦う技術を何世紀に も亘り発達させてきたが、遥か北東の島王国にも、同じように音を立てない戦術を使う戦士一族がいた。部隊隊長は我々のことを国に帰って話した日本人使節か ら我々の技能を学んだに違いない、という箇所があるのだ!『ラーマーヤナ』の編集されたとされる紀元3世紀の日本はインドに使節など送れるはずもない。下 手するとサムライもインド起源と書くかもしれない。

 著者はSFもかなり書いており、『蒼~』のプロローグとエピローグ題は「月は無慈悲な夜の女王」、第一部は「幼年期の終わり」、第二部「人間以上」等SFファンなら、馴染み深い。欧米SFの熱心なファンは、英国文化の影響を受けたインドにもいるのは当然だ。
 『ラーマーヤナ』といえば、美しきヒロイン・シーターとラーマとのロマンスが思い浮かぶが、まだ『蒼~』にシーターは登場してない。おそらく次巻だと思われるが、気の早い読者の私はシーターが出てこなかったのが残念だった。次巻以降の展開がとても楽しみだ。

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