インドの諸財閥の中で、最大規模と呼ばれるのがタタ財閥である。しかし、創業者以降この財閥を率いてきた会長は全てパールシー(※インドのゾロアスター教徒)と呼ばれる少数民族であり、一族経営により強固な基盤をつくり上げている。ターター一族の興隆は、そのまま近代インドの歩みと重なり、英領インドの知られざる側面も伺える。なお、日本語解説ではタタとなっているが、現地の発音ではターターとなるそうで、以下この表記にする。
1839年、初代総帥ジャムセートジー・ターターはナヴサーリー(現グジャラート州)の神官家系に生まれている。このターター家の家名の由来は面白い。ターター家はジャムセートジーから数えて少なくとも25世代前まで父祖を遡ることが出来、14代前にラーナー家から分家した家柄という。ラーナー1世はムガル朝第3代皇帝アクバルに仕えた功績で知遇を得た神官であり、その子孫は現代でも法皇のような存在となっている。そのラーナー1世の再従弟の息子バフラームはあまりにも頭に血が上りやすい性格のため、グジャラート語で「短気者(ターター)」と渾名が付けられ、正式に「ターター」を家名にしたという。ラーナー家よりは格は劣るにせよ、ターター家も概して名門に分類される血筋だそうだ。
我国にも珍名を持つ人はいるが、「短気者」を正式な家名にするのは珍しいのではないだろうか。名字を名乗ることになった明治時代の日本の庶民のように、パールシーには自分また父親の職業名をそのまま姓にする人もおり、それを英語化した姓もかなりあるという。エンジニア、ドクター、プリンター(印刷屋)ならともかく、ソーダウォーター、レディマネーという姓まであるそうだ。もっとも、カースト制に無縁のため、エンジニアの姓でも子孫は別の職業に就いていたりする。
これも日本と同様、単に出身地を姓にする場合もあり、後にボンベイ(現ムンバイ)に移住したものの、グジャラート州のバルサラの住民で、故郷の町名を己の姓にした人物がいた。その孫の1人こそファルーク・バルサラ、ロックミュージシャンの故フレディ・マーキュリーである。
ジャムセートジーの父ヌッサルワーンジー・ターターは、神官家系の1人息子にも係らず、ヘールベド級神官の資格を得た後、貿易商を志し、ナヴサーリーからボンベイに移住した。ちなみに15世紀以降のゾロアスター教神官団は3層階級制を取っており、その称号は高い順からダストゥール、モーベド、ヘールベドとなっている。ヌッサルワーンジーの得たヘールベドは初級祭式を執行する最下層の祭司の資格である。なお、ゾロアスター教の神官は神官家系の男児が就き、平信者や神官家系でも女性は認められない。
その息子ジャムセートジーも出生地こそナヴサーリーだが、1858年、大学を卒業するやボンベイで父の商売に参加する。正確に書くならば、ジャムセートジーはナヴサーリーの神官家系から商売に転じた二世であり、神格教育を受けてヘールベド級神官の資格こそ得たものの、ゾロアスター教神官としての実務体験は皆無である。
1860年代にはジャムセートジーは父の貿易業から紡績工場の経営に興味を示し、以降、爆発的な勢いで多角的な事業を企画・立案する。つまり、1868年にターター電力を創設して水力発電事業を起業し、1893年、来華して対中貿易に携わり、同年来日し、ボンベイ・大阪航路を開設している。彼の目に明治時代の日本はどう映ったのだろう?また、日本でジャムセートジーは渋沢栄一と対談を交わしており、日印の実業家の巨匠同士で何を話し合ったのだろうか。
1903年、老舗として名高いタージマハル・ホテルを開業してホテル業にも参入し、インド東部の鉱山街を丸ごと買い取り、「ジャムシェード・プール市」と改名、鉄鋼業にも乗り出す(※死後の1907年、ターター・スチール創設)。英領インドの殆どの経済活動に進出し、概ね成功を収めた。彼の起業家としての才能により、ターター家はインドの基盤産業を支配する財閥としての基礎を築いた。
タージマハル・ホテル開業に関して興味深いエピソードがある。ジャムセートジーはこの付近にあったホテルにイギリス人の友人と入ろうとしたところ、インド人という理由で彼だけが入ることを拒まれた。その差別に怒ったジャムセートジーは、「ならば、インド人誰でも入れるホテルを建ててやる!」と決意した建てたのがこのホテルと言われる。
各界のセレブが宿泊するボンベイ第一のこのホテルは、2008年11月26日、ムンバイ同時多発テロで標的のひとつとなり、テロリストに占領された上、多数の客が殺害される。仕掛けられた爆弾により爆破も起き、館内は損傷、ホテル最上階と屋根は火災で焼失した。民族主義精神により建設されたホテルが、宗教・民族主義テロの標的とされたのは皮肉である。
その②の続き
◆関連記事:「パールシーとムガル皇帝」
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1839年、初代総帥ジャムセートジー・ターターはナヴサーリー(現グジャラート州)の神官家系に生まれている。このターター家の家名の由来は面白い。ターター家はジャムセートジーから数えて少なくとも25世代前まで父祖を遡ることが出来、14代前にラーナー家から分家した家柄という。ラーナー1世はムガル朝第3代皇帝アクバルに仕えた功績で知遇を得た神官であり、その子孫は現代でも法皇のような存在となっている。そのラーナー1世の再従弟の息子バフラームはあまりにも頭に血が上りやすい性格のため、グジャラート語で「短気者(ターター)」と渾名が付けられ、正式に「ターター」を家名にしたという。ラーナー家よりは格は劣るにせよ、ターター家も概して名門に分類される血筋だそうだ。
我国にも珍名を持つ人はいるが、「短気者」を正式な家名にするのは珍しいのではないだろうか。名字を名乗ることになった明治時代の日本の庶民のように、パールシーには自分また父親の職業名をそのまま姓にする人もおり、それを英語化した姓もかなりあるという。エンジニア、ドクター、プリンター(印刷屋)ならともかく、ソーダウォーター、レディマネーという姓まであるそうだ。もっとも、カースト制に無縁のため、エンジニアの姓でも子孫は別の職業に就いていたりする。
これも日本と同様、単に出身地を姓にする場合もあり、後にボンベイ(現ムンバイ)に移住したものの、グジャラート州のバルサラの住民で、故郷の町名を己の姓にした人物がいた。その孫の1人こそファルーク・バルサラ、ロックミュージシャンの故フレディ・マーキュリーである。
ジャムセートジーの父ヌッサルワーンジー・ターターは、神官家系の1人息子にも係らず、ヘールベド級神官の資格を得た後、貿易商を志し、ナヴサーリーからボンベイに移住した。ちなみに15世紀以降のゾロアスター教神官団は3層階級制を取っており、その称号は高い順からダストゥール、モーベド、ヘールベドとなっている。ヌッサルワーンジーの得たヘールベドは初級祭式を執行する最下層の祭司の資格である。なお、ゾロアスター教の神官は神官家系の男児が就き、平信者や神官家系でも女性は認められない。
その息子ジャムセートジーも出生地こそナヴサーリーだが、1858年、大学を卒業するやボンベイで父の商売に参加する。正確に書くならば、ジャムセートジーはナヴサーリーの神官家系から商売に転じた二世であり、神格教育を受けてヘールベド級神官の資格こそ得たものの、ゾロアスター教神官としての実務体験は皆無である。
1860年代にはジャムセートジーは父の貿易業から紡績工場の経営に興味を示し、以降、爆発的な勢いで多角的な事業を企画・立案する。つまり、1868年にターター電力を創設して水力発電事業を起業し、1893年、来華して対中貿易に携わり、同年来日し、ボンベイ・大阪航路を開設している。彼の目に明治時代の日本はどう映ったのだろう?また、日本でジャムセートジーは渋沢栄一と対談を交わしており、日印の実業家の巨匠同士で何を話し合ったのだろうか。
1903年、老舗として名高いタージマハル・ホテルを開業してホテル業にも参入し、インド東部の鉱山街を丸ごと買い取り、「ジャムシェード・プール市」と改名、鉄鋼業にも乗り出す(※死後の1907年、ターター・スチール創設)。英領インドの殆どの経済活動に進出し、概ね成功を収めた。彼の起業家としての才能により、ターター家はインドの基盤産業を支配する財閥としての基礎を築いた。
タージマハル・ホテル開業に関して興味深いエピソードがある。ジャムセートジーはこの付近にあったホテルにイギリス人の友人と入ろうとしたところ、インド人という理由で彼だけが入ることを拒まれた。その差別に怒ったジャムセートジーは、「ならば、インド人誰でも入れるホテルを建ててやる!」と決意した建てたのがこのホテルと言われる。
各界のセレブが宿泊するボンベイ第一のこのホテルは、2008年11月26日、ムンバイ同時多発テロで標的のひとつとなり、テロリストに占領された上、多数の客が殺害される。仕掛けられた爆弾により爆破も起き、館内は損傷、ホテル最上階と屋根は火災で焼失した。民族主義精神により建設されたホテルが、宗教・民族主義テロの標的とされたのは皮肉である。
その②の続き
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