ある若い方が発した疑問で、ずっと気になっていたことがある。「何故あれ程理知的な人がいるインドが、長らくイギリスに支配されたのか、ツッコミたくなる」。素朴だが実に鋭い問であり、インドに関心のある私も色々考えてみた。その理由として、カースト制と多民族、多宗教国家ゆえ、大同団結が出来にくかったことが挙げられる。しかし、先日見たインド人著者の本で、他にも興味深い事情があったことが分った。
その本こそ『だれも知らなかったインド人の秘密』(東洋経済新聞社)、著者パヴァン.K.ヴァルマ氏はセント・ステファン大学(デリー)歴史科を首席で卒業した知識人でもある。これまで私が読んだインド人史家の本には、支配過程や支配実態を描いていても、その原因に深く踏み込んだものはなかった。インドに関心のない方でも、古代から続く文明を誇るインドがイギリス、その前も既に中世からムスリムにより比較的容易に征服され、支配されたことを不思議に思われただろう。インド人にとって異教徒の外国人は全て不浄であり、19世紀までは穢れた地に行くことになる海外渡航さえ、常軌を逸した行為だった。
では、何故多くのインド人が「不浄な」外国人や、社会的に受け入れ難い異教徒征服者と働きたがったのか?ヴァルマ氏はその疑問を簡単に書いている。「征服者の方が力が強かったから」と。インド人は実用主義的で、強者とは積極的に結託したという。個人的反感、社会的村八分、外国人に特権を与えるとの不名誉、文明の詭弁など全てをもってしても、強者と戦って無駄だという本質的な知恵は捨てられなかったそうだ。一旦、新たな権力が現実のものになれば、インド人はそれを受け入れ、スムーズに協力し、馴れ合いの関係になっていく。
1835年、マッコーリー卿は、こう宣言している。「我々は当面、我々とインド人民衆の間に立って通訳の業を果たしてくれる者たちをつくらねばならない。その者たちは血と皮膚の色はインド人だが、好み、意見、モラル、知性はイギリス人なのです」。
こうしてインド人支配層の殆どはイギリス支配組織と特別な結託を結んでいく。インド文化や伝統に造詣が深かったはずのインド人エリートは、自らの関心を180度変え、公然と自分たちの伝統を無視、イギリス式に変えていった。それは話し方、服装、マナー、生活様式全てに及んだ。殖民権力は被支配者の心をも支配するのが常だが、インドでのイギリス支配は殖民の歴史上、類を見ないほど成功したとヴァルマ氏は言う。
イギリスがインドでの殖民支配を確立できたのは統治能力や軍隊より、インド人が全く抵抗しなかったことによる、とまで著者は断言している。その時々の権力におもねることで目に見える利益、つまり新権力内での足がかり、ステイタス、昇進、昇給などが得られた。そのような誘惑は道義心や外国人と関係することへの社会的タブーをも超えられた。合意を結ぶことは屈辱的だという認識は、権力を受け入れる気持に勝ることはなく、教養あるインド人は疑問すら持たなかった。
階層社会の中で人々が自分の地位を追い求めることは、廉直さから遠ざかるものの、インド社会では昔から認められていた。権力者は忠誠心を受け取れたが、それは私利に基づくものであり、絶対的なものでなかったため、かなりモラルには欠けていた。他国人には理解しがたい面があるも、インドでは日常茶飯事だったようだ。北インドの詩人トゥルシーダース(1543-1623頃)も、16世紀版ラーマーヤナともいうべき叙事詩で、シビアな処世術を書いている。
-神も人間も下男も行いは皆同じである。私利が忠誠心の陰に隠れている。権力者にはその状況が実際に必要とするものを与えなさい。全てを与えてはいけません。何故なら権力者は変わる場合があるから、次の権力者用に自分の中立性を残しておかねばなりません…
ヴァルマ氏によれば、次の権力者が現れぬ限り、そして現在の権力基盤が強い場合に限り、現金なインド人は心から、時には卑屈に上に仕えると記す。外部の人間はこれを個人的献身だと誤解しがちだが、インド人自身は人間関係に距離を置いているそうだ。結果的にインド人は忠実ではなかったが、イギリス人には奉仕したとなる。相手に組み込まれることなく共謀する能力こそ、インドが軍事であっさり負けても、完全には押さえられなかったことへの説明となっている、と氏は指摘する。
その②に続く
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その本こそ『だれも知らなかったインド人の秘密』(東洋経済新聞社)、著者パヴァン.K.ヴァルマ氏はセント・ステファン大学(デリー)歴史科を首席で卒業した知識人でもある。これまで私が読んだインド人史家の本には、支配過程や支配実態を描いていても、その原因に深く踏み込んだものはなかった。インドに関心のない方でも、古代から続く文明を誇るインドがイギリス、その前も既に中世からムスリムにより比較的容易に征服され、支配されたことを不思議に思われただろう。インド人にとって異教徒の外国人は全て不浄であり、19世紀までは穢れた地に行くことになる海外渡航さえ、常軌を逸した行為だった。
では、何故多くのインド人が「不浄な」外国人や、社会的に受け入れ難い異教徒征服者と働きたがったのか?ヴァルマ氏はその疑問を簡単に書いている。「征服者の方が力が強かったから」と。インド人は実用主義的で、強者とは積極的に結託したという。個人的反感、社会的村八分、外国人に特権を与えるとの不名誉、文明の詭弁など全てをもってしても、強者と戦って無駄だという本質的な知恵は捨てられなかったそうだ。一旦、新たな権力が現実のものになれば、インド人はそれを受け入れ、スムーズに協力し、馴れ合いの関係になっていく。
1835年、マッコーリー卿は、こう宣言している。「我々は当面、我々とインド人民衆の間に立って通訳の業を果たしてくれる者たちをつくらねばならない。その者たちは血と皮膚の色はインド人だが、好み、意見、モラル、知性はイギリス人なのです」。
こうしてインド人支配層の殆どはイギリス支配組織と特別な結託を結んでいく。インド文化や伝統に造詣が深かったはずのインド人エリートは、自らの関心を180度変え、公然と自分たちの伝統を無視、イギリス式に変えていった。それは話し方、服装、マナー、生活様式全てに及んだ。殖民権力は被支配者の心をも支配するのが常だが、インドでのイギリス支配は殖民の歴史上、類を見ないほど成功したとヴァルマ氏は言う。
イギリスがインドでの殖民支配を確立できたのは統治能力や軍隊より、インド人が全く抵抗しなかったことによる、とまで著者は断言している。その時々の権力におもねることで目に見える利益、つまり新権力内での足がかり、ステイタス、昇進、昇給などが得られた。そのような誘惑は道義心や外国人と関係することへの社会的タブーをも超えられた。合意を結ぶことは屈辱的だという認識は、権力を受け入れる気持に勝ることはなく、教養あるインド人は疑問すら持たなかった。
階層社会の中で人々が自分の地位を追い求めることは、廉直さから遠ざかるものの、インド社会では昔から認められていた。権力者は忠誠心を受け取れたが、それは私利に基づくものであり、絶対的なものでなかったため、かなりモラルには欠けていた。他国人には理解しがたい面があるも、インドでは日常茶飯事だったようだ。北インドの詩人トゥルシーダース(1543-1623頃)も、16世紀版ラーマーヤナともいうべき叙事詩で、シビアな処世術を書いている。
-神も人間も下男も行いは皆同じである。私利が忠誠心の陰に隠れている。権力者にはその状況が実際に必要とするものを与えなさい。全てを与えてはいけません。何故なら権力者は変わる場合があるから、次の権力者用に自分の中立性を残しておかねばなりません…
ヴァルマ氏によれば、次の権力者が現れぬ限り、そして現在の権力基盤が強い場合に限り、現金なインド人は心から、時には卑屈に上に仕えると記す。外部の人間はこれを個人的献身だと誤解しがちだが、インド人自身は人間関係に距離を置いているそうだ。結果的にインド人は忠実ではなかったが、イギリス人には奉仕したとなる。相手に組み込まれることなく共謀する能力こそ、インドが軍事であっさり負けても、完全には押さえられなかったことへの説明となっている、と氏は指摘する。
その②に続く
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