その①の続き
7世紀に訪印した中国僧・玄奘は、「インド人は明るい気質で…訴訟に関しては度が過ぎるほど譲歩的になる」と記している。ソグド人をよく書かなかった玄奘も、インド人にはべた褒めに近い記録を残しており、他にも「民は概ね正直、勤勉、勉強熱心」とある。18世紀の初代インド総督ウォーレン・ヘースティングズも、インド人の特質をこう語っている。「インド人は優しく慈悲深い性質で、親切にされたことに対してとても感謝し、他のどの国民よりも与えられた苦痛や悪に復讐心を燃やすことが少ない」。興味深いことにインドに来たイギリス人官吏も、インド人の気質を褒めている者が少なくないのだ。
ヴァルマ氏はこのようなインド人の特質さの原因として、自滅を好まない傾向を挙げている。暴力が結果的に自殺行為になるような衝突となるのを、インド人は良しとしないと言う。インド人は絶え間ない動乱や風土病に対する根深い恐怖心を持っており、暴力が制御できぬ状態となり、制度を維持出来なくなることをとても恐れていると書く。ガンディーの唱えた非暴力抵抗とは軍事的に強い外来者の身体を傷付けることなく、また制度自体も大動乱の中で危険に曝されることがなく抵抗が出来る、というシステムで、インド人の気質にぴったり合ったという訳なのだ。
武力を用いイギリスを追い出したかった革命運動家も一部いたが、過度に賞賛されたものの認められることはなく、結局反主流派に留まる。運動に殉ずる人に民衆は敬意を払いはしても、割にあわぬという現金なインド人の思考は変らなかったそうだ。つまり、インド人が重要視するのは輝かしい殉教ではなく、常に粘り強く生き延びること、罰よりも回復力、征服よりも生存であり、それは「弱者や犠牲者の消極的かつ“女性的な”抜け目なさ」で、これこそがインド人が文明の中で培ってきた特徴、とヴァルマ氏は断言している。
要するに殉教より生き抜くのが勝ちということだが、ヴァルマ氏の見解は私には衝撃的だった。中世のムスリム侵攻時、婦女子がジャウハルと呼ばれる自ら火に入る儀式を遂げ、集団自決したことは知られている。特に勇猛で知られるラージプート族はヒンドゥーの独立を守るため、初期のムガル帝国に激しく抵抗したのは有名だ。敗戦確実でもムスリム軍と戦う際、後顧の憂いを断つため女たちを生きたまま炎の中に投げ込むジャウハルを行った後、男たちは婚礼時に身につけたターバンを被って出陣、玉砕した。降伏したら奴隷とされるため、誇り高きラージプート族は玉砕覚悟の戦いをしたのだが、むしろ彼らは例外の部類だったかもしれない。
昨年9月にも記事にしたが、18世紀末、対英闘争に生涯を費やした南インドのティープー・スルタン、インド大反乱時のラクシュミー・バーイーのような人物もいるが、彼らもまた例外中の例外だったのか。男のラージャたちがこぞって勝てそうもないイギリスと早々妥協したのに対し、雄々しく戦ったのが若きラーニー(女王)ラクシュミーだったのだ。彼女の元に馳せ参じたラージャの部下たちもいたという。
一方、デリーの商人はムガル皇帝に忠誠を誓いつつ、町外れの丘にいたイギリス兵に密かに生活必需品を流していた。発覚すれば即処刑だったが、イギリス側からは高く品物を買うことが約束されていたのだ。タゴールの短編小説『非望』にも、イギリス軍に謀反の動きを知らせる太守が登場する。
ヴァルマ氏が指摘した殉教より生き抜くことを重視するインド人の特徴に、正直私は混乱した。いかに皮相的にせよ、これまで得た知識による認識がかなり揺らぐ想いだった。ただ、インド人に限らず他の民族も生き抜くことが大切な点では大差ないだろう。建前と本音が何処でも大きく異なっているように、理想と現実はかけ離れたものなのだ。長い歴史と膨大な国土と人口を持つ国は、多様な人々が存在するということも事実である。
歴史的に見てインドは外からの侵略者を自衛することで、情けない記録を残している、とヴァルマ氏はあっさりと書いていた。国内でも起こっている脅威をどう処理するのか、インド人は壁に押し付けられて初めて自らを守るという姿勢を取るという。そして事柄の処理についても、瀬戸際から妥協へと舵取りする傾向にあり、それは歴史から学んだことだと氏は見る。譲ることを負けとは思わず、回避可能な失敗で余分のエネルギーを使わずとも済むのなら、譲歩はむしろ勝利と見なす。勝ち目があるにも関らず、対立意見を持つ者にも譲歩していたガンディーの例を挙げ、そうすることで相手を取り込むのも知恵あることとしていた。もっとも、インド人の自己主張の激しさは殊に有名で、日本人の譲歩とは明らかに感覚が違うが。
その③に続く
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