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オランダ総督の見た原住民 その③

2016-10-06 21:10:06 | 読書/東アジア・他史

その①その②の続き
 バンダ諸島征服の仕方は、現代のような人道主義などなかった当時でもやり過ぎと思われたらしく、知らせを聞いた会社職員の1人アールト・ヘイゼルスは次の発言をしている。
彼らが自分達の国の自由のために戦ったのは、我々が我々の自由を守るために多年生命や財産を賭して戦ってきたのと同様であることを、理解せねばならない
 オランダ東インド会社の重役集17人会すら、クーンに送った書簡の中で、もう少し穏やかに事を運んでほしかった、と注意している。同盟国たるイギリスへの思惑からも、連邦議会や会社首脳部はクーンの行いには一言せざるを得なかったのだ。

 しかし、クーンはその後アンボン島モルッカに進出、同じように高圧的な態度で土着君主達に迫り、オランダとの取引契約を結ばせている。クーンが「東インドの原住民は最も強い者と交わる…この地方では皆風のままになびく…」と言い放ったのは、その実績から出した見解ではあるが、「此処では最強の者が正しい」という個所こそ、何時の時代も変わらぬ帝国主義者の本性なのだ。
 1623年2月にクーンが総督を辞任したのも、首脳部の圧力によるものではなく、彼自身の希望だった。その上、17人会は後任の総督をクーン自身の推薦により決定するほどの信頼を示しており、研究者たちは先の戒告はイギリスに対するジェスチャーと見ている。辞任から4年後、会社はクーンを再び総督として任命しており、やはり首脳部は彼を最適任者と考えていたのだ。

 アジアにおける会社の覇権と利権を確立した人物として、18世紀に活躍したイギリス東インド会社クライヴとクーンはしばしば比較されている。但し、両者の最後は正反対だった。インドで私腹を肥やしたとして罪に問われ、無罪を勝ち取るものの体面を失い、健康や富まで失って自ら命を絶ったクライヴ。
 一方、再任後にクーンは会社と敵対するマタラム王国との戦闘中、熱病に罹り急死する。享年42歳。マタラムはバタヴィア城に対する大規模な包囲戦を2度試みたが、オランダは苦戦の末守り抜いた。クーンが死んだのは、2度目の防衛戦の時だった。
 
 東インド原住民には血も涙もない征服者だったクーンだが、オランダでは国民的英雄とされているという。面白いことにクーンが実はユダヤ人だったとする説があるそうだ。もちろんこの説の真偽は不明だし、ユダヤ陰謀論の観がなくもない。
 しかし、当時のオランダはスペインやポルトガルから亡命してきたユダヤ人が多く住んでおり、彼がユダヤ人の血を引いていても不思議はない。現代でもオランダは西欧諸国の中で、ユダヤ人が最も居心地の良い国のひとつである。

 最も強い者と交わり皆風のままになびく、と評された東インド原住民の気質だが、これは彼等に限らず人種や宗教を問わない人類の性なのだ。ナチス占領下のオランダで、ユダヤ人を匿った勇敢な人もいたが、彼等はむしろ少数派だった。最も強いドイツ人支配者と交わり、風のままになびいたオランダ人の方が多かった。オランダ人に占領されつつあった17世紀の東インドのみならず、何時の時代も最強の者が「正しい」とされる。
 21世紀でもそんな人類の本性は変わりない。少し前にインドネシアの高速鉄道計画で、日本を退け受注に成功した中国の例が話題となった。それも現地人が最も強い者と交わる傾向を思えば、当然の結果なのだ。最強の中国になびき、最強の友とするのは結構。しかし風向きが変るや、早々に日本になびいてくるということ。“用日”は中韓人だけの十八番ではない。

 オランダやインドネシアが第二次世界大戦中の日本軍占領を未だに蒸し返すのも、オランダ支配下の歴史に軽く目を通しただけで知れよう。同じ敗戦国であるはずのドイツも、かつて同盟国だった日本ばかりか、規模ではナチスに遥かに劣るアルメニア人虐殺でトルコを叩いている。
 尤もイギリスもオランダのインドネシア支配を、「オランダの植民地行政の歴史は陰謀、詐欺、賄賂、虐殺、不正の歴史の最悪なものの一つである」と記していたことが、『父が子に語る世界歴史』(ネルー著)に見える。
■参考:『オランダ東インド会社』(永積昭著、世界史研究双書⑥/近藤出版社)

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