その①の続き
前回書いた様にクーンが最も信奉し、かつ必要としたのは「実力」だった。彼は意見書の中で原住民をこのように記していた。
「東インドの原住民は最も強い者と交わる。此処では最強の者が正しい……この地方では皆風のままになびく。最強の者は彼らの最強の友である」
現地情勢を見据えたうえで下した彼の意見だったが、最強の者が必ずしも最強の友になるとは限らない。クーンの政策に対し非難が向けられる際、必ずバンダ諸島の征服が挙げられる。最強の者が最強の敵となった事例として、クーンのバンダ諸島征服に触れてみたい。
東インド地域にはスペイン・ポルトガルに加えイギリスも進出、香辛料交易や覇権をかけて激しく争っていた。イギリスは先発したオランダに押され気味だったにせよ、後者は欧州ではイギリスとの間で戦火を交える余裕はなかった。そこでオランダ連邦議会は東インド会社に対し、イギリスとの敵対を止めるよう支持した。
バタヴィアでイギリスとも戦火を交え、個人的にもイギリスを嫌っていたクーンが本国首脳部に素直に従うはずはない。彼らの弱腰を痛烈に非難しただけでなく、根拠地バタヴィアを強化し、事毎にイギリス人を圧迫する。
このような情勢の下、たまたまバンダ諸島(※モルッカ諸島一部でもある)の原住民が香料の取引を拒み、オランダ東インド会社に背く。クーンはこれをイギリスの煽動によるものとみて、討伐軍の派遣を決定する。イギリス側がこれを拒絶すると、クーンは1621年1月にオランダ艦隊の司令官としてバタヴィアを出帆、2月末にバンダ諸島に着き、次々に島を占領する。その中には1616年以来イギリスが実際に領有していたラン島も含まれていた。
だが、イギリス側はクーンの勢いに呑まれて抵抗を試みなかったため、見捨てられたと感じた原住民達は3月頃まで続々と降伏した。クーンは元々この諸島の住民を他に移し、別の住民を入植させるつもりだった。800人近い原住民捕虜をジャワに送って奴隷労働に従事させ、そのことを知った残りの住民が絶望的な抵抗に転じると、人質に取って置いた首領47人を虐殺する。
特に首謀者とされた8人の処刑は酸鼻を極めたが、皆少しも刑吏に抗議せず死んでいった。ただ1人がオランダ語でこうつぶやいたことが伝わっている。
「我が神々よ、御慈悲はないのでしょうか」
征服者にとってもこの処刑は必ずしも後味のよいものではなかったらしく、処刑に立ち会った無名のオランダ人はこう書いている。
「事件はこうして終わった。誰が正しいかは神のみぞ知る。処刑が終わると全ての者は取り乱し、こんなお努めは御免だと思いながら、めいめいの場所に引き取った」
この知らせを聞いた生き残りのバンダ人数千は、降伏するよりも高地に逃れ寒さと飢えによる死を選び、また堪り兼ねて他の島に逃げようとしたラン島の住民は捕えられ、うち成人160人は全員殺された。
このような戦いの後、クーンは原住民のいなくなった空白を埋めるため、会社使用人やオランダの自由市民をこの島に送る。オランダ語で「ぺルク」と称する一定面積の土地区画を割り当て、奴隷を用いて香料、特にナツメグの生産に従事させた。従ってこの耕作者たちは、「ペルケニール」と呼ばれるようになった。
総督クーンの植民地建設の理想をこれほど露骨に実行した例は他にない、と云う研究者もいるが、バンダ諸島島民と似た様な悲劇は新大陸で行われたスペイン・ポルトガルの征服時と全く変わりない。異なるのは、キリスト教の宣教をするかしないか、の点だけだ。
クーンが第4代総督だった1623年、アンボン島にあるイギリス館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件(※アンボイナ事件)が起きる。尤も事件があった時、クーンは東インド退去直後で不在だったが、これをイギリス嫌いのクーンの差し金と見たイギリス世論は沸騰、後の英蘭戦争の遠因ともなった。しかし、苛烈でもクーンのやり方がインドネシア方面における香料貿易を独占、長く権益を維持する功績に繋がったのは否定できない。
その③に続く
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