十年一昔と言われるが、今日で東日本大震災からちょうど十年目となった。あれからもう十年も経ったのか……と思う人もいれば、まだ十年目だと見る方もいるだろう。
被災地でも被災に遭わなかった人と、家族や家、財産すべて失った方では震災への見方はかなり違うはず。私の家族や親族、友人は全て無事だったし、家屋も特に被害はなく、被災地でもかなり恵まれていた。東日本大震災十年目なので、そんな一宮城県民の想いを綴ってみたい。
暫く前からメディアで繰り返される標語に、「震災を忘れない」「震災を風化させない」等がある。私的にはこの種の掛け声はウンザリさせられるばかりか、耳障りですっかり嫌いになっている。この種のスローガンは、「先の大戦を忘れない」と全く同じ流れであり、独善的極まりない同調圧力そのものとしか感じられない。
しかも「震災を風化させない」と訴えているのは、被災地の被災者よりも余所から来た活動家や知識人が結構目に付く。連中にとっては震災はまたとないネタと仕事を提供しており、「震災ビジネス」と化しているとしか見えない。被災に付け入り、宣教活動に来た海外のキリスト教団体も来日していた。
全てを失い、助かったのは命だけという被災者ならば、震災は忘れたくても忘れられないはず。忌まわしい震災の記憶など、早く風化してほしいと内心では思っている被災者もいるのではないか?被爆者の中には広島の原爆ドームを見るのが辛い……と言った人もいたらしいが、その気持ちが東日本大震災でようやく理解できた。
しかし、メディアには辛い被災体験を語る被災者ばかりが登場する。彼らは“震災の語り部”として、恐ろしい体験を真顔で語りかけ、「震災を風化させない」運動に貢献しているが、メディアの作る空気は影響大と痛感させられる。
2012年春、復興支援ソング『花は咲く』が作られ、NHK企画制作ということもあり、たちまちヒットソングとなった。作詞は仙台市出身の映画監督・岩井俊二氏だが、作詞者が仙台市出身の映画監督であることを私が知ったのは数年後だった。
実はこの歌も私は苦手だった。ТVを付ければ毎回のように流れ、感傷的なメロディーであっても、震災後の不便な生活が嫌でも蘇ってくるからだ。私の住む地区は幸いにして水道は使えたし、電気も3日目には復旧している。しかし3日間だけであっても、電気無しの暮らしは堪えた。
電気が使えぬため、こたつやファンヒーターも使えない。石油ストーブは底が錆びたため処分したばかり。3月半ばは仙台でもまだ寒く、夜は冷えた。夜になればロウソクを明かりにする他なく、照明では江戸時代と同じ水準となった。絶えず余震が起き、震度も4~5クラスがザラなのだ。ロウソクの暗い光の中、余震はさらに暗い気分にさせられる。
そのためロウソクと震災の記憶が結びついてしまい、何年もロウソクの光が苦手になった。震災前だとキャンドルナイトといえば、ロマンティックな響きがあったが、ロウソクを見るだけで暫くは震災の記憶が蘇ったものだった。
もちろん私の体験など、津波で命以外は全て奪われた被災者に比べれば取るに足らないし、人様に語るに値しない。電気は復旧してもガスの復旧には時間がかかり、わが家でガスを使えたのはちょうど一か月後だった。
3月中は買い物にも不自由だったし、店先は何時も長蛇の列状態で、2時間待ちが普通だった。ガソリン不足も酷く、方々のガソリンスタンドでは長い車列が出来ていた。コンビニは軒並み閉まり、仙台に限らず被災地の風景は何処も似たようなものだったはず。
何時の間に街が震災前の状態に戻ったのか、今となっては記憶もあいまいになっている。特に仙台市中心部は、1年も経たぬ間に元通りになった感があり、復旧は早かったのだろう。「震災を忘れない」等と訴える者にとっては困る現象だろうが、人間の記憶ほどアテにならないものはなく、記憶は後から上書きされるので、震災体験とやらも鵜呑みにできないのだ。
その二に続く
◆関連記事:「杜の都、超激震!」
「東日本大震災から一か月」
「海外からの支援について」
「被災地で救援活動する人々」
日本テレビ系列局(仙台ならミヤギテレビ(ミヤテレ))にて
「Fukushima50」(原作 門田隆将 「死の淵を見た男」)
ノーカットで放映、だそうです。
2週間以上(ウチは幸い川の淵なので、飲み水はともかく洗濯 掃除の水は平気)でしたねえ。
ガスはプロパンで問題なし。薪の竈もありましたし
火は困りませんでしたが。物流の回復は大体1が月。道路も鉄道も傷んでましたし、茨城県の鹿島市の石油コンビナートが機能停止していたので、こちらも1月近くはガソリン不足で5から6時間かけて
給油待ちという光景が続き車両が機能してませんでした。
茨城はインフラは傷ついて生活が大変でしたが、死者はすくなく、我が家も震度6弱でも食器一枚
割れずに済みました。
昨日の河北新報は震災特集を組んでいましたが、それでも呆れる中共忖度がありました。その二にも書きましたが、台湾の旗を“白旗”にしていたのです。2012年でも同じだったし、改めてサイテーの地方紙だと不快になりました。
我々国民も災害に備えるとともに、情報リテラシーを身につけマスゴミの嘘に騙されないようにしなければいけません。
>ロウソクの暗い光の中、余震はさらに暗い気分にさせられる。
> そのためロウソクと震災の記憶が結びついてしまい、何年もロウソクの光が苦手になった。
地震でろうそくの光が苦手になるとは想像していませんでした。やはり、大地震を体験された方の話は思いも寄らない事がありますね。ろうそくでは殆ど光は広がらないでしょうし、夜、家の中を歩き回る事も非常に難しいでしょう。
あの日は普段使っている駅で、通常は駅情報を映しているディスプレイにコンビナート火災のニュースが流されていたのを覚えています。関東の友人へ携帯からメールをしても返事がなく、返事があったのは明け方でした。
都市ガスは本当に震災に弱い。昭和53(1978)年の宮城県沖地震でも復旧に一週間もかかりました。プロパンの便利さが分かりましたが、今更変えられない、、、
茨木も津波の被害がありましたね。それでも犠牲者数で断トツなのが宮城県。岩手県の倍以上だったし、地形が影響したのでしょう。
自分はニューヨークの様な安全圏にいて、「たかが電気」とほざくミュージシャンを環境保護派と持ち上げるのがマスゴミですから。
地震でろうそくの光が苦手になったのはあくまで個人体験ですが、もしかすると他にもいたかもしれません。うかつに倒して火事になる危険があるため、ろうそくを持って家の中を歩き回ることはしませんでした。代わりに使ったのが懐中電灯。幸い電池は買い置きしていましたが、電池も早々に店から無くなりました。
キャンプ用のランプも使いましたが、こちらも意外に光は広がらず暗かったですね。これで昔の人が生活していたのだから感心しました。
関東もかなり被災しています。津波もあり、茨木や千葉でも20人以上が犠牲になりました。携帯は完全に不通状態で安否堪忍もままなりません。にも関らず、たかが電気と戯言を吐く音楽家もいたのです。
電気といえば、病院など生死に関わるのですが、それを考えるとこんな駄言はありえません。社会インフラなんてあって当然だと思っているのでしょうね。
震災日には東京で帰宅困難者が続出しましたね。特に女性は街灯のない夜に帰宅するのは危険です。あれだけ交通網の発達した東京でも、大震災ではなすすべもなかったことに驚きました。
被災地では暫く信号機も使えず、そのため昼間でも車の運転は緊張しました。電気なしの現代社会は考えられないのに、あの駄言。音楽家は最低限の常識もないのか、と言いたくなります。