その一、その二、その三、その四の続き
骨肉の争いに苦悩するアルジュナに対し、クリシュナは微笑して答える。ここからクリシュナの教えが始まり、ギーター全編のテーマとなる。
―あなたは嘆くべきでない人々について嘆く。しかも分別くさく語る。賢者は死者についても生者についても嘆かぬものだ。私は決して存在しなかったことはない。あなたも、ここにいる王たちも……。また我々は全てこれから先、存在しなくなることもない。主体(個我)はこの身体において、少年期、青年期、老年期を経る。そしてまた、他の身体を得る。賢者はここにおいて迷うことはない(2-11~13)。
アルジュナは自分の縁者や友人が死ぬのを嘆くが、クリシュナは人々が死のうと生きようと、嘆く必要はないと言う。古代インドの考えでは、我々人間を成り立たせている個人の中心主体(個我)があり、それは過去・現在・未来に亘り永遠に存在しているとされていた。ある肉体を得たその個人の個我は少年期、青年期、老年期を経て、死後に他の肉体に移る。これが輪廻の主体であると考えられている。個我は常に存在し不滅であるから、彼が殺されても彼の主体は消滅しない、だから嘆くことはないとクリシュナは説く。さらにはこう言う。
―生まれた者に死は必定であり、死んだ者に生は必定であるから。それ故、不可避の事柄について、あなたは嘆くべきではない(2-27)。
クリシュナの教えは非情にも感じるし、戦って殺す相手は異教徒や異民族ではなく、同教徒の血族や友人なのだ。ならば、ギーターは殺人を勧め、人を戦に駆り立てる教えなのか?と思う人もいるのは当然だし、上村勝彦氏すら確かにギーターを悪用すれば、このような解釈は可能だと言っている。それでも躊躇うアルジュナに、クリシュナは止めを刺すようにクシャトリアとしてのダルマ(義務)を持ち出す。
―更にまた、あなたは自己のダルマ(義務)を考慮しても、おののくべきではない。というのは、クシャトリアにとって、義務に基づく戦いに勝るものはないから。もしあなたが、このダルマに基づく戦いを行わないならば、自己の義務と名誉を捨て、罪悪を得るであろう。人々はあなたの不名誉を永遠に語るであろう。そして、重んじられた人にとって、不名誉は死よりも劣る。
あなたは殺されれば天界を得、勝利すれば地上を享受するであろう。それ故、アルジュナ、立ち上がれ。戦う決意をして(2-31、33~34、37)。
ギーターを読まれた方ならお分かりだろうが、この経典は宗教問答集となっており、アルジュナの問いに、クリシュナが諄々と説教するスタイルなのだ。戦地での戦いを前に、こんな悠長な哲学問答が可能なの?と言いたくなるが、それも後世に書かれた経典の世界だからだろう。
時にアルジュナも、「クリシュナよ、もし行為よりブッディ(知性)が優れていると考えられるなら、何故あなたは私を恐ろしい行為に駆り立てるのか。あなたは錯綜した言葉で私の知性を惑わすかのようだ」(3-1~2)と不服そうに尋ねるが、宗教哲学問答でアルジュナが敵うはずはない。結局クリシュナに説き伏せられ、迷いがなくなり自分を取り戻したアルジュナは立ち上がり、「あなたの言う通りにしよう」(18-73)と、18日間に及ぶ同族争いを開始する。
激闘の末、勝利したのはパーンダヴァ軍だったが、勝者側もそれで幸福になった訳ではない。戦後36年目、クリシュナの属するヤーダヴァ族の勇士たちは、酒に酔い互いに殺し合って滅亡する。クリシュナ自身、猟師に足の裏を射られて死ぬ。その猟師の名が「ジャラー(“老いの意”)」、いくら神の化身でも老いには勝てなかったということ。
ギーター3章に、私が面白いと思った個所がある。例によってアルジュナの質問にクリシュナが答えるかたちである。
「人間は何に命じられて悪を行うのか。望みもしないのに。まるで力ずくで駆り立てられたように」(3-36)
「それはカーマ(欲望)である。それは怒りである。ラジャス(激質)というグナ(要素)から生じたものである。それは大食で非常に邪悪である。この世でそれが敵であると知れ」(3-37)
怒りと欲望によって人間が悪を行うというのは、古今東西通じる真理なのだが、未だに殆どの人間はそれらを制御できないのも事実なのだ。信仰により怒りと欲望を鎮める人もいるが、反対に狂信で怒りと欲望が煽られるケースも珍しくない。果たして日本人が隠れヒンドゥー教徒なのかどうか、結論を下せる学識も見識もない私だが、仏典を通じてヒンドゥー教の影響も受けているのは間違いない。そして上村氏の論法を適用すれば、スリランカや東南アジアなどの南伝仏教徒も隠れヒンドゥー教徒と言えるかもしれない。
マクニールが著書『世界史』(中公文庫)で、「インド文明の東南アジアへの拡大と中国、朝鮮、日本に与えた衝撃が、全人類の半分以上を擁している文明をひとつの共通の色に染め上げたのだ」と書いていた。「ヘレニズムの成果もこれほど巨大ではなかった」(302頁)とも述べており、宗教の力はかくも強烈なのだ。
◆関連記事:「阿修羅的な人―バガヴァッド・ギーターより」
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インド文明がアジアの過半に影響を与えたのに対し、儒教により無宗教的性格となった中華文明が周辺地域にしか影響を与えなかったのも宗教のすさまじさを教えているかもしれません。
宗教と言えば、キリスト教の偏狭さには呆れかえりますねこの牧師のブログを偶然発見したのですが、酷い限りでした。
http://jpnmission.blog42.fc2.com/category2-1.html
宗教自体人間の非合理な面の塊みたいなものなのに他の宗教を攻撃し、我こそがと騒ぐ姿は滑稽その物でしかありません
しかし日本に根付いた風俗を攻撃しているのをみると逆にこれではキリスト教が日本に根付くことはありえないなと安心するのが皮肉です。
リンク先、わかりづらかったのですが、「風習の疑問」というリンク先にずらりと並んでいました。
それにしても、「外国人、外国は」とウルサイことウルサイこと。今時まともな日本人なら外国、外国人の「印籠」ごときにひれ伏したりはしないというのに、この牧師のアタマは20世紀で凍結保存されているようですな。でも、当の外国人のなかでもスゴい人は、今時はこんなです↓
http://terusoku.ldblog.jp/archives/32866174.html
この写真に写っている「ガイジン」さんは、自動車運転手としては世界最高峰の腕前の持ち主。だから他人の運転する乗り物については、おそらく余程の信頼を置いていなければ「乗せてもらう」ことには大変な抵抗感があるはず。にもかかわらず、(おそらく東京の)旧「国電」に安心しきって乗っている。彼らはすでにこういう域に達しているのでしょう↓
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1086712.html
378コメに戦慄した私は、471コメ、513コメに意を強くしたのであります。
まあ、牧師という名の「教会ヒキコモリ」には、こんな時代、世の中の流れには全くついていけないのでしょうが。
ついでに、キリスト教や聖書には、こういう揶揄もあります↓
http://blog.ohtan.net/archives/52187084.html
仕切り線のちょい上を御一読ください。
仏教を学びにインドに向かった中国僧はいても、反対に儒教を学ぶために中国に来たインド人はいません。これだけでも儒教の他の文化圏への影響力が知れるでしょう。インド仏教と中国仏教は違いますが、輪廻転生が中国でも受け入れられたのは興味深いです。
紹介されたブログですが、いかにも耶蘇らしい罵倒ですね。一部引用すると…
>>浄土教においては、「厭離磯土、欣求浄土」(おんりえと ごんくじょうと)といって、けがれに満ちた現世をいとい、幸福に満ちた浄土をあこがれることが勧められました。
これって耶蘇の天国と何処が違うのでしょうね。
>>仏教の厭世的傾向、現実逃避的な傾向
これまた耶蘇の「現世は、人間の罪によって汚れ堕落している」世界観の投影では?
最近『十字軍物語2』(塩野七生著、新潮社)を読んでいるのですが、第二次十字軍の提唱者「聖ベルナール」が書の中で書いた言葉が載っています。だからこそキリスト教の聖人になれたのでしょう。
「イスラム教徒は諸悪が詰め込まれた壺である。悪魔の手によって作られた。我々の中でも現実に眼にすることが出来る、悪の標本だ。この者たちに対しては、対策は一つしかない。根絶、がそれである。
殺せ!殺せ!そしてもしも必要になった時は、彼らの刃にかかって死ぬのだ。何故ならそれこそが、キリストのために生きることになるのである」
>>それにしても、「外国人、外国は」とウルサイことウルサイこと
「外国人、外国は」と言わない日本人の耶蘇がいるでしょうか?未だにメディアにはこの類の人物がのさばっています。そのくせ連中は絶対に外国に移住しない。他国では相手にされないのを彼ら自身が自覚しているから。
ただし、上記のような日本の風習を全面否定するクズ牧師は、ある意味“正直者”なので分かり易い。アンチキリストを装い、散々キリスト教非難する者が、実は半島系キリスト教信者というケースもありますよ。連中は他宗派に成り済まし、複数HNを使っての自作自演を行います。文法も知らないような悪文で、特に句読点の使い方がおかしな者も。
カーレースに疎い私は、フェルナンド・アロンソという人物をネットで初めて知りました。リンク先にあった「本当のレースは韓国から真っ先に逃げ出すことだ」は、吹きました。
「外国人が「日本に長く居すぎた…」と実感するとき…」も、面白くて笑えます。このような「ガイジン」さんのほうが、「教会ヒキコモリ」牧師より遥かに日本社会に貢献しています。世の中の流れには全くついていけないからこそ、牧師という「教会ヒキコモリ」になったのでしょう。つまり、他人に寄生して食う輩。そんな奴の御高説を有難がった聞き、献金する信者も哀れというか頭が悪いですね。
調べて見ますと「トラナ」というのだそうで、ヒンドゥー教寺院ばかりではなくて、インドの仏教寺院にもあるのだそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%8A
紹介されたサイトにはサンチのトラナの画像がありますね。私の高校時代の世界史の教科書に、この写真が載っており、どこか鳥居に似ていると感じましたが、あながち的外れではなかったようです。
鳥居の起源を中国に求める研究者もいますが、未だに根拠は不明なようです。案外鳥居も、中国ではなくインド起源かもしれませんね。クリスチャンならイスラエル起源説を主張するでしょう。
大阪の四天王寺には東西南北の入り口に鳥居があるらしいのですが、トラナなのかもわかりませんね。
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-1/newpage101.htm
お寺の境内は思いの外広くて一回りの建造物を見学するとクタクタになりました(笑。
鳥居は東西南北に一つづつ、合計4つあるのだろうと思っていたのですが、今は昨日の写真のが一つだけしか残っていないのだそうです。
いい休日になりました(笑。
リンクされた「大阪再発見!」というサイトは興味深いですね。大阪の四天王寺の他にも寺社や名所が紹介されている。関西で寺社というと、京都や奈良が本場のイメージが強いですが、大阪も史跡が豊富です。
我が家の菩提寺は地方のお寺なので大したことがないですが、関西や関東の由緒ある寺にはとても境内が広いものが多いです。東京にある同宗派の寺に行った時、その広さに驚きました。これでは建造物一回りするだけで、いい運動になります。それにしても、四天王寺の鳥居は今では画像にあるものしか残っていないとは残念ですね。
私の場合、今日の休日は日本シリーズの優勝セール目当てに街に行きました(笑)。
大阪は戦争で焼け野原になってしまったイメージがありますが、結構歴史的な建造物があっておどろきます。
たとえば大阪市立愛珠幼稚園。大阪高裁、大阪証券取引所やキタ新地の歓楽街にも近いビジネス街の真ん中に封建時代の武家屋敷のような幼稚園があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82%E7%AB%8B%E6%84%9B%E7%8F%A0%E5%B9%BC%E7%A8%9A%E5%9C%92
残念ながら四天王寺は昭和以降の建造物がほとんどでした。