おいらと病気の関係...............
PS : 難しい話をすると専門的なモノになっていくのでわかりずらいかと思いますので、あくまでおいらの見地からの記事だということを理解した上で読んで下さい。
おいらはここで率直に書いておくと「鬱病」の中でも重度の方に分類されています。
んで重度に分類されるというのはおいら自身が考えている以上に重い部類にはいると言うことですな。
虚弱体質ならぬ「虚脱体質」
常時の「後ろ向きな考え」
間断なく続く「自責の念」
己の存在意義を問う「人間としての基本人権の放棄」
などでしょうかね。
心の病気というのは目に見えない訳ですな。
それで薬の副作用で太っていますので良いモノを食べ過ぎているという誤った認識も産まれます。
このことが弱った心には非常に堪えて辛いモノでした。
まあかなりの回復傾向が生まれつつありますが、それでも落ち込むときはとことんまで落ち込みます。
何故こんな記事を書こうと思ったのかを書いておこうと思います。
理由は事故で怪我した子が1年半程度掛かっても完治していないということでおいらが病院への送迎を行なっているんです。
んでこの子の障害者認定の度合いがおいらよりも低かったことをお聞きした訳ですよ。
彼の状態は明らかに生活に支障のある外傷を負って半年程度も病院に入院し、未だに負った怪我が治らない状態な訳です。
普通は端から見ると明らかにおいらの方が健康で滞りなく生活を送れていると見えるのは間違いない訳です。
しかし認定に当たっての考察を少し書いておこうと思います。
多分ですが、ここには「過失」と「被害者」の違いが判定に影響していると思われます。
加えて一昔前の精神障害者の社会の認識と今の精神障害者の認識が大いに変わっていることも加味されているでしょう。
車両同士の事故というのは例え過失が少なくても判定ではどちらにも過失があるとされてしまいます。
例え避けたのにぶつかられても、簡単に書くと被害者側に落ち度が無くて当たる前に避けなかったならもっと大きな事故になっていたとしても動いている状態であれば過失が付くというのは常識なんですな。
よって10 : 0という事故は停止状態で当てられるという状態しか判定されない訳です。
自損事故の場合は当然ながら自分が悪いんですな。
過失は自分自身にある訳で気をつけていれば事故を起こさずに済んだと言い切れます。
例え死角になっていてもちゃんと車から降りてバックするところを目で見て確認することを怠った人間が悪いのです。(注:おいらのことです)
んで「バイクで転倒して怪我をした」という事実は自信に大きな過失があるということが解るでしょう。
疲れていて注意力散漫になっていた事や、過労気味だったことも加味しなければならないかもしれません。
ところがここで「ならば車を移動手段として使用すれば良かったのではないか」という意見が産まれる訳です。
彼はあの事故の時点で車とバイク2台を所有していました。
加えて「スピードの出し過ぎでカーブを曲がれきれなかった」という交通法規の違反にも焦点が当てられているような気がしますな。
「慣れた頃が一番危ない」というのは車のみならず危険を伴う仕事や道具を扱う際に耳にタコができるぐらいに言われるものです。
しかし人間というのは自分の事を過剰に認識しがちでしかも「自分は大丈夫」という愚かな考え方をします。(注 : おいらのことです)
中途半端な運転技術というのは運転するに当たっては一番危ない状態で「他の人よりも自分は巧いのだ」という錯覚を起こさせますからね。(注 : おいらのことです)
でもおいらの家の近くで事故が起こったんですが、このカーブまでのストレートがスピードを煽るのを助長しているのもたしかなんですよね。
けっこうスピードオーバーで走っている車も多くておいらの住んでいる住宅地は事故が多いんですよ。
ちょっと見通しが悪い道路が多くてどうにかならないモノかと考えてしまいます。
.....えーっと、こういった要素から「本人の過失」が障害者認定の度合いに大きく反映されているのかもしれません。
おいらの場合はいつまでもうじうじしているのではなくて何とかしなくてはならんな~と考えることが出来るようになったところです。
鬱病の診断の基準としておいら的に書いてみます。
まず「人のせいにしている」というのは鬱の度合いとしては軽度だと感じますな。
いわゆる責任転嫁が成立していて自分自身のふさぎ込みの原因が他の人に起因しているからです。
よって対処方法は簡単で鬱症状を軽減する方法は鬱の原因になっている人に会わないようにしたり、鬱原因になっている人のことを考えないようにすれば良いだけなのです。
しかし人というのは面白いモノでいつまでも被害者面したがるんですな。(注 : おいらのことです)
考えなければいいのに嫌なことに注意を集中するという間違いを犯しがちです。
ここで書いておきたいこととして人というのは一度に一つのことしかできません。
よって仕事や勉強、趣味など有益なことに注意を集中することで他の人のことを考えないようにすれば「人のせいにする」という問題はあっさり解決する訳です。
またもし原因となっている人に会って嫌なところが見えても直ぐに忘れるようにすれば良いだけの問題なんですな。
こんな事に時間を費やすというのは「もったいないッ」(某CMの矢沢永吉風)訳ですよ。
この時点の鬱状態というのは鬱病とは呼ぶならばほとんどの人間が陥る状態で鬱病と判断するのは少し違うのではないかと考えてしまいますな。
この時点では「自尊心」とか「プライド」というような自信が人の中に存在していますからね~。
英語の「Pride」の定義の中に「自尊心」も含まれていますが、日本語の意味の「Pride」の意味の認識とは異なっていることを断っておきます。
次の段階として「原因がないのに何もする気にならない」という状態ですな。
ここまでにももっと段階があるのですがね。
面倒なので端折ります。
そもそも「原因がない」鬱状態というのは絶対にありません。
「原因がない=原因が認識できない」というだけなんですな。
しかし鬱特有の「認識不良」というのが発生していて物事の判断が出来ないぐらいの状態になっているはずです。
また端折りますがだいたいの段階として次に挙げる重度の鬱病と考えても良いと考える段階です。
それは「自己否定」という段階ですな。
「己の存在を否定する」ということですが、今世間の若者に見られるような軽いやりとりではなく徹底して己の存在を嫌悪する状態まで行った人のことを示しています。
自己否定の最も強い状態として自殺があるわけですがね。
自殺にもいろいろと質というか性質があって
「プライド故に落ちぶれていくのが耐えられないので死ぬ」
「生きるのが面倒くさいので死ぬ」
「徹底的に自分自身の存在が許せないから死ぬ」
というようなものにおおかた分かれると思いますな。
まず1番目の「プライド故~」の自殺は自分に対する愛が深い故に死んでいく人が多いんですな。
そして2番目の「面倒くさい~」はただ単に軽い気持ちで人生をリセットするという感じで自殺する人が多いでしょう。
んで3番目の「自分自身の~」が鬱病の強い段階です。
「我思う故に我在り」という言葉があるほど人というのは自己の認識というのは重要な精神的活動です。
基本的に自分が在って行動するというのが普通な訳であって、第一条件に自分に益がないことは行なわないのが当然なんですな。
クリスチャンの行動の基準として
「自分にして欲しいと思うことを他の人にもしなさい」
というものがありますが、「利他的な愛」にも自尊心が大いに関係しています。
「利他的な愛」にも「自分の益」を優先している部分があるんですな。
よくよく考えると解るんですけどね。
誰かに見て貰えていれば報いがあるという認識があってクリスチャンの場合は「神様が見ているから」という大前提の庇護の元に他の人に施す訳です。
これを「天に宝を蓄える」という言葉を用いて神が人が行なっている良いことを理解して下さっていていつか絶対に報いて下さるという希望があるからこそ行動するんですな。
よって「自己否定」の強い人の考え方としては報いが無くても良いし、希望もなくて良い。
ただただ裁いて欲しいしそこには過去の行状の良いことではなく悪いことだけを見て判断して頂きたいという切実なる願いがあるんですな。
死にたいのに死ねない人間の辛さというのはけっこう辛いモノがあります。
まあ心の交通事故にあったと思えば楽になるんでしょうけどね。
んで最終段階の自己否定の鬱状態の人の中でも非常に強い自己否定が発生している人は障害者としては重い段階になるんだな~と感じました。
総合的に鬱の状態を引き起こす原因として外的要因が非常に多いんですよ。
どの鬱病の段階でも親や兄弟姉妹、親族、クラスメート、教師、上司、同僚などの圧力やハラスメントが強ければ強いほど、そして期間が長ければ長いほど鬱は進行していき、やがては自分自身にあらゆるハラスメントを行なうようになっていく訳です。
また一定の条件によっても産まれる精神的トラウマも大きなものでしょう。
これはPTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼ばれ一定の条件が産まれると昔の記憶がフラッシュバックしパニック状態に陥ったり恐怖や無力感、麻痺、過度の覚醒などが起こります。
見た目で非常に痛々しい怪我をしている人間とおいらと並ぶと明らかにおいらの方が健康体に見えるんですな。
しかし障害者としての判断ではおいらの方が重く判断されたんですな。
このことから自分自身の度合いというのを改めて認識したと言っても良いかもしれませんな。
事故を客観的に見てきたおいらでさえ彼の方が障害者としての認定では重いと考えていましたからな........
あの事故よりもおいらの方が重いということはもう少しおいらの行動する基準をゆるめても良いとか感じました。
PS : 重ねて断っておくこととしてこれはおいらの見地で綴った記事です。
間違っていることは解っていますので突っ込まないで下さい。(爆)
PS : 難しい話をすると専門的なモノになっていくのでわかりずらいかと思いますので、あくまでおいらの見地からの記事だということを理解した上で読んで下さい。
おいらはここで率直に書いておくと「鬱病」の中でも重度の方に分類されています。
んで重度に分類されるというのはおいら自身が考えている以上に重い部類にはいると言うことですな。
虚弱体質ならぬ「虚脱体質」
常時の「後ろ向きな考え」
間断なく続く「自責の念」
己の存在意義を問う「人間としての基本人権の放棄」
などでしょうかね。
心の病気というのは目に見えない訳ですな。
それで薬の副作用で太っていますので良いモノを食べ過ぎているという誤った認識も産まれます。
このことが弱った心には非常に堪えて辛いモノでした。
まあかなりの回復傾向が生まれつつありますが、それでも落ち込むときはとことんまで落ち込みます。
何故こんな記事を書こうと思ったのかを書いておこうと思います。
理由は事故で怪我した子が1年半程度掛かっても完治していないということでおいらが病院への送迎を行なっているんです。
んでこの子の障害者認定の度合いがおいらよりも低かったことをお聞きした訳ですよ。
彼の状態は明らかに生活に支障のある外傷を負って半年程度も病院に入院し、未だに負った怪我が治らない状態な訳です。
普通は端から見ると明らかにおいらの方が健康で滞りなく生活を送れていると見えるのは間違いない訳です。
しかし認定に当たっての考察を少し書いておこうと思います。
多分ですが、ここには「過失」と「被害者」の違いが判定に影響していると思われます。
加えて一昔前の精神障害者の社会の認識と今の精神障害者の認識が大いに変わっていることも加味されているでしょう。
車両同士の事故というのは例え過失が少なくても判定ではどちらにも過失があるとされてしまいます。
例え避けたのにぶつかられても、簡単に書くと被害者側に落ち度が無くて当たる前に避けなかったならもっと大きな事故になっていたとしても動いている状態であれば過失が付くというのは常識なんですな。
よって10 : 0という事故は停止状態で当てられるという状態しか判定されない訳です。
自損事故の場合は当然ながら自分が悪いんですな。
過失は自分自身にある訳で気をつけていれば事故を起こさずに済んだと言い切れます。
例え死角になっていてもちゃんと車から降りてバックするところを目で見て確認することを怠った人間が悪いのです。(注:おいらのことです)
んで「バイクで転倒して怪我をした」という事実は自信に大きな過失があるということが解るでしょう。
疲れていて注意力散漫になっていた事や、過労気味だったことも加味しなければならないかもしれません。
ところがここで「ならば車を移動手段として使用すれば良かったのではないか」という意見が産まれる訳です。
彼はあの事故の時点で車とバイク2台を所有していました。
加えて「スピードの出し過ぎでカーブを曲がれきれなかった」という交通法規の違反にも焦点が当てられているような気がしますな。
「慣れた頃が一番危ない」というのは車のみならず危険を伴う仕事や道具を扱う際に耳にタコができるぐらいに言われるものです。
しかし人間というのは自分の事を過剰に認識しがちでしかも「自分は大丈夫」という愚かな考え方をします。(注 : おいらのことです)
中途半端な運転技術というのは運転するに当たっては一番危ない状態で「他の人よりも自分は巧いのだ」という錯覚を起こさせますからね。(注 : おいらのことです)
でもおいらの家の近くで事故が起こったんですが、このカーブまでのストレートがスピードを煽るのを助長しているのもたしかなんですよね。
けっこうスピードオーバーで走っている車も多くておいらの住んでいる住宅地は事故が多いんですよ。
ちょっと見通しが悪い道路が多くてどうにかならないモノかと考えてしまいます。
.....えーっと、こういった要素から「本人の過失」が障害者認定の度合いに大きく反映されているのかもしれません。
おいらの場合はいつまでもうじうじしているのではなくて何とかしなくてはならんな~と考えることが出来るようになったところです。
鬱病の診断の基準としておいら的に書いてみます。
まず「人のせいにしている」というのは鬱の度合いとしては軽度だと感じますな。
いわゆる責任転嫁が成立していて自分自身のふさぎ込みの原因が他の人に起因しているからです。
よって対処方法は簡単で鬱症状を軽減する方法は鬱の原因になっている人に会わないようにしたり、鬱原因になっている人のことを考えないようにすれば良いだけなのです。
しかし人というのは面白いモノでいつまでも被害者面したがるんですな。(注 : おいらのことです)
考えなければいいのに嫌なことに注意を集中するという間違いを犯しがちです。
ここで書いておきたいこととして人というのは一度に一つのことしかできません。
よって仕事や勉強、趣味など有益なことに注意を集中することで他の人のことを考えないようにすれば「人のせいにする」という問題はあっさり解決する訳です。
またもし原因となっている人に会って嫌なところが見えても直ぐに忘れるようにすれば良いだけの問題なんですな。
こんな事に時間を費やすというのは「もったいないッ」(某CMの矢沢永吉風)訳ですよ。
この時点の鬱状態というのは鬱病とは呼ぶならばほとんどの人間が陥る状態で鬱病と判断するのは少し違うのではないかと考えてしまいますな。
この時点では「自尊心」とか「プライド」というような自信が人の中に存在していますからね~。
英語の「Pride」の定義の中に「自尊心」も含まれていますが、日本語の意味の「Pride」の意味の認識とは異なっていることを断っておきます。
次の段階として「原因がないのに何もする気にならない」という状態ですな。
ここまでにももっと段階があるのですがね。
面倒なので端折ります。
そもそも「原因がない」鬱状態というのは絶対にありません。
「原因がない=原因が認識できない」というだけなんですな。
しかし鬱特有の「認識不良」というのが発生していて物事の判断が出来ないぐらいの状態になっているはずです。
また端折りますがだいたいの段階として次に挙げる重度の鬱病と考えても良いと考える段階です。
それは「自己否定」という段階ですな。
「己の存在を否定する」ということですが、今世間の若者に見られるような軽いやりとりではなく徹底して己の存在を嫌悪する状態まで行った人のことを示しています。
自己否定の最も強い状態として自殺があるわけですがね。
自殺にもいろいろと質というか性質があって
「プライド故に落ちぶれていくのが耐えられないので死ぬ」
「生きるのが面倒くさいので死ぬ」
「徹底的に自分自身の存在が許せないから死ぬ」
というようなものにおおかた分かれると思いますな。
まず1番目の「プライド故~」の自殺は自分に対する愛が深い故に死んでいく人が多いんですな。
そして2番目の「面倒くさい~」はただ単に軽い気持ちで人生をリセットするという感じで自殺する人が多いでしょう。
んで3番目の「自分自身の~」が鬱病の強い段階です。
「我思う故に我在り」という言葉があるほど人というのは自己の認識というのは重要な精神的活動です。
基本的に自分が在って行動するというのが普通な訳であって、第一条件に自分に益がないことは行なわないのが当然なんですな。
クリスチャンの行動の基準として
「自分にして欲しいと思うことを他の人にもしなさい」
というものがありますが、「利他的な愛」にも自尊心が大いに関係しています。
「利他的な愛」にも「自分の益」を優先している部分があるんですな。
よくよく考えると解るんですけどね。
誰かに見て貰えていれば報いがあるという認識があってクリスチャンの場合は「神様が見ているから」という大前提の庇護の元に他の人に施す訳です。
これを「天に宝を蓄える」という言葉を用いて神が人が行なっている良いことを理解して下さっていていつか絶対に報いて下さるという希望があるからこそ行動するんですな。
よって「自己否定」の強い人の考え方としては報いが無くても良いし、希望もなくて良い。
ただただ裁いて欲しいしそこには過去の行状の良いことではなく悪いことだけを見て判断して頂きたいという切実なる願いがあるんですな。
死にたいのに死ねない人間の辛さというのはけっこう辛いモノがあります。
まあ心の交通事故にあったと思えば楽になるんでしょうけどね。
んで最終段階の自己否定の鬱状態の人の中でも非常に強い自己否定が発生している人は障害者としては重い段階になるんだな~と感じました。
総合的に鬱の状態を引き起こす原因として外的要因が非常に多いんですよ。
どの鬱病の段階でも親や兄弟姉妹、親族、クラスメート、教師、上司、同僚などの圧力やハラスメントが強ければ強いほど、そして期間が長ければ長いほど鬱は進行していき、やがては自分自身にあらゆるハラスメントを行なうようになっていく訳です。
また一定の条件によっても産まれる精神的トラウマも大きなものでしょう。
これはPTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼ばれ一定の条件が産まれると昔の記憶がフラッシュバックしパニック状態に陥ったり恐怖や無力感、麻痺、過度の覚醒などが起こります。
見た目で非常に痛々しい怪我をしている人間とおいらと並ぶと明らかにおいらの方が健康体に見えるんですな。
しかし障害者としての判断ではおいらの方が重く判断されたんですな。
このことから自分自身の度合いというのを改めて認識したと言っても良いかもしれませんな。
事故を客観的に見てきたおいらでさえ彼の方が障害者としての認定では重いと考えていましたからな........
あの事故よりもおいらの方が重いということはもう少しおいらの行動する基準をゆるめても良いとか感じました。
PS : 重ねて断っておくこととしてこれはおいらの見地で綴った記事です。
間違っていることは解っていますので突っ込まないで下さい。(爆)