第1章 莉玖
一つの門扉、一つの玄関、そして一つの住まい。
同じように見えるその場所に、同じような家族がいても、その全ては違う人生を生きている。
一つの家族が在る。幸せそうに見えた家族.、父と母と兄と妹の四人。その隣にも、同じ構成の父母と妹、そして自分という家族が居る。毎日をただ楽しく過ごす時期を過ぎたら、次に待っていたのは苛酷だった――。
「りっちゃん。遅刻しちゃうよ」
矢谷莉玖(やたにりく)は、同じ高校に通う一つ下の妹が階下から叫ぶのを聞く。
今日は文化祭だ。そんなに時間厳守でなくてもいいだろうに。そう思いつつ、制服の上着を掴み部屋を出た。
「遅いよ。電車に乗り遅れる」
もう玄関先で靴を履いて待っている実玖(みく)が、大きなバッグを持ち上げた。
「お前、その荷物……」
「うちのクラス、和風喫茶するって話したでしょ。持ってる子は着物でってなったの」
母に汚れてもいい着物はないかと聞いたら、これならと教えてくれたらしい。
「もしかして、それ運ばせようとしてるか」
「自分で運ぶよ。でも」
そこで少しだけ言い淀んで、腕が疲れちゃった時だけ助けてと。
「変だと思った。文化祭の日にこんなに早く行くなんてさ」
貸せよ、と黒いバッグを肩にかける。実玖はそこで見事なアルカイックスマイル。
「あとで教室に来て。奢るから」
あ~あ。
こうやって、毎回上手く使われる自分に呆れるけど。惚れた弱みだ、仕方ない。先に玄関を出た実玖を追うように、莉玖も行ってきますと家を出た。
莉玖と実玖は兄妹だが、血のつながりはない。莉玖は父の友人の子供だと、中三の冬に聞かされた。
当時、実の妹に邪な想いを抱いたと苦しんだことを思えば、家族との血のつながりはないと言われた方が救われた。
ただ一緒には暮らせない。そう話した時、両親が実玖にも本当のことを告げたのだ。そして莉玖が中学卒業と同時に出ていくとも。
しかし彼女は一緒に居たいと望んだ。
あの時、子供なりの心の叫びを素直に言葉にした莉玖は、自分を褒めてやりたいと思う。そしてその想いを受け入れてくれた二人には頭が下がる。
逆にいえば、賢かったのは親の方だということだ。
好意を寄せていると告げた二人を家族のなかで見守るということは、ヘタに手を出せないということだった。
今年、実玖が入学してきて、この思いは更に強くなった。校内で男子生徒と話してるところに出っくわしても、何も言えない。外では兄妹のまま。それが実玖と決めた約束だったから。だからこそ、強い人間でありたいと思うようになった。何があっても守ってやりたい。そう思える人がいて幸せだと、この時は単純に思っていた――。
「持つよ」
「いいよ。着物だけで軽いし」
最寄り駅を出て学校への道を歩きながら、実玖がはしゃいでいる。一年の時は自分もこんなだっけ。実玖が学校好きなのは仕方ないけどな。
「着物の着付け、誰がやるんだ」
「できる子が他に三人いるから、手分けしてパパッとね」
「そっか」
実玖は小さな頃から和服が好きで、よく着せてもらってた。いつの間にか自分で着られるようになって。女って着物着ると色っぽく見えるよな、なんて不謹慎なことも考えたのは自分だ。
「りっちゃんは何してるの。お化け屋敷なんでしょ」
「来たら教えるてやる」
教えてと食い下がられたが、とりあえず秘密で押し通した。来ても分からないだろう。女になってる筈だから。流石に見られたくない。
「りっちゃん」
下駄箱が別になるので、その手前で実玖は礼を言って手を出してくる。
「頑張れよ」
そう言ったら、可愛く笑って昇降口に向かって行った。
「莉玖」
呼ばれて振り返ると、赤川基義が立っていた。隣の家に住んでいる同級生だ。
「同じ電車だったか。気付かなかった」
そう言ったら、駅前で朝飯を食べていたからもっと早く着いていたと言う。
「二人の姿を見つけたからさ」
莉玖がいるなら雑用やらされないかと思って登校したのだと言う。
「基義」
「実玖ちゃん、大丈夫?」
「あゝ。今日は早かったから皐月には会ってない」
皐月とは基義の妹で、やはり一つ下で同じ学校だった。
少し前。正確にいえば今年の夏休み、基義の家で事件が起こった。母親が父親を襲ったのだ。
莉玖の父は警察の人間だ。捜査には無縁でも、知らない人は警察というだけで何でもしてもらえると思ってしまうのだろう。その時も基義は110番に電話するよりも前に家のチャイムを鳴らした。
事件そのものは、たぶん普通に片づけられた。問題はその後だった。残された高校生の二人。とりあえず学校をやめる必要はなかったものの、基義は大学進学を諦めようとしていた。
その時も父が奨学金制度の資料を集め、大学進学を勧めてた。
『お隣さんだしな』
それが合言葉にでもなってしまったように、二人は家に上がり込んできた。そして多分、皐月は実玖を苛めてる。
「行こうか」
はっとして顔をあげると、基義が先を歩いていた。
どうしてこんなことになったんだろう。仲のいいお隣さんが、今では主のように振る舞っている。
後で実玖の教室に行ってみないとな。何処で皐月と遭遇してるかも分からないし。そんなことを考えながら、莉玖も昇降口へ歩いていった。
いつもは二年A組となってるプレートに、和風喫茶と書かれた紙が貼りつけてある。
「あ。矢谷先輩だ~」
そんな声が上がると、次々と同じように呼ばれる。
「結構賑わってるじゃん」
そう言ったら、黒っぽい着物に男物の角帯をした実玖が簡易の厨房で珈琲を淹れているところだった。
「約束通り奢れよ」
そう言ったら、別の生徒に何杯でも好きなものを飲んで下さいと言われる。それじゃ儲けが台無しになるじゃん、と実玖の方が口をとがらせていた。
「そんなに何杯も飲めないよ。汗かいちゃったから冷たいものくれ」
そう声をかけると、分かったと背を向けた。
「少し休憩もらったから、りっちゃんのとこ見に行ってもいい」
コーラと自分の分のアイスティを持って実玖が隣に座る。
「いいけど、俺も休憩だから何もやってないぞ」
すると一瞬、目を瞠り、
「いいのいいの」
どうせ見られたくなかったんでしょ、と付け加えてコロコロ笑う。悪いか、男の女装姿見ても楽しくないだろ。それもお岩さんだ。そうでもないよと言いながら、でも情けで見ないでいてあげるとまた笑う。
「じゃ、行くか」
と立ちあがったところで、私も行くと声がした。
「皐月」
「今日は実玖と二人でいる。基義捜して連れて来てもらえ」
そして実玖の手を取った。置き去りにすると気付いた実玖が何かを言おうとした刹那、先に言葉を告げる。
「文化祭くらい楽しもうよ」
それを聞いた実玖が泣き笑いのような表情を見せ頷く。
「矢谷先輩。実玖がいないと困るんで、休憩は三十分以内でお願いします」
クラス委員の箱崎直哉がそう釘をさすのを忘れなかったお蔭で、皐月の存在を振り切って教室を出ていけた。
箱崎はうちと赤川家の事情を知る、数少ない一人だ。
自分の目が届かない範囲の苛めから、守る為に打ち明けた。それからは味方になってくれてる。
今日だけは楽しく過ごさせてやりたい。またすぐに地獄のような日々が戻る。心が張り裂けるような思いを少しでも軽くしてやりたくて、そして心の中だけは恋人として、無邪気な時を共にありたい――。
To be continued. 著 作:紫 草