娘が、好きな人ができたのと嬉しそうに報告してくれる。
そんな未来に私は笑って、応援してあげると言おうと思っていた。どんな母親がいるとしても、そのどの親よりも私は恋に寛大でいられると思っていたのだ。
しかし、それは無意味なことになった。何故なら、娘が恋人といって見せてくれた写真には絶対に認めたくない男の顔があったのだから。
どうしてこんなことになってしまったのか。
娘がまだ幼稚園に通っていた頃、世の中は禁煙を謳ってはいたものの、町の中ではまだ歩き煙草をする人は多かった。夫はほんの短い間、喫煙した時期はあったが、子供が欲しいと思った時に止めていて父も吸わない。だからこそ私にとって、煙草というものが凶器になるという判断はできていなかった。
手を繋ぐ娘が、突然の叫び声と共に倒れるように手を引っ張っても何が起こったのか、理解できない。洋服が燃え、焦げた臭いが立ち上る。
一瞬、自分の中で何かを考えることを放棄したかのように時が止まってしまった。
近くにいた人がその場に立ち尽くしていた私に、救急車を呼ぶように言ってくれて初めて、これはただ事ではないと思った。
慌てて娘を抱き寄せると鳴き声が弱まり、涙だけが流れ続けていた。名前を呼び、体をさすると今度は痛いと連呼する。焼けた洋服を脱がそうとすると一部皮膚に張り付いてしまって再び娘が悲鳴を上げた。
余りのことに回りが見えていなかった。ただ誰かが救急車を呼んでくれていたようで、次第に大きくなるサイレンを聞きながら私自身も泣くしかなかった――。
病院での出来事は殆んど憶えていない。
どうやって夫を呼んだのかも分からない。気づけば、夫とそれぞれの両親が病室に集まっていた。誰に何を聞かれても、一つも答えることはできなかった。そのうち警察に届けることになると医師から告げられ、警察官から質問攻めにあっても、それは変わらなかった。
娘の体、今も首の下から左の胸にかけて火傷の痕がある。原因は煙草の火だった。人混みのある休みの街中、その人は右手に持った煙草を意図的ではないにしろ娘の体に密着させた。その上、その痕はケロイド状と化し、色も変わり白い肌に盛り上がる痕となったのだ。
現代では形成外科での治療もあると聞いたけれど、完全に治るわけではないと言われ手術は止めた。火傷痕を含め、そのケロイドは一生残ってしまう。首に近い部分では、これ以上広がらないことを願うしかない。
残ってしまった痕を見る度に、この子の将来を不安に思う。だからこそ勢いがある若いうちに結婚してくれたら、と思ってしまっていた。それが、こんなことになるなんて……。
どんなに年数が経っても、決して忘れることのないその顔。娘に傷を残した張本人が、娘のスマホで笑っていた。思わず投げつけてしまいたい衝動にかられたものの、彼女に何と説明していいのか分からず思いとどまった。
兎も角、この男だけは駄目だと。それしか言えなかった。娘に男の記憶はないのだろう。かつて一度だけ見舞いに来て、夫が会わせた。まだ痛みとの闘いの中で憶えているわけがない。
どんな出会いだったのだろう。でも聞いてしまったら話が進んでしまうかもしれない。私は許せない。この男だけは許したくない。
帰ってきた夫にそのことを告げた。結婚ではなく、恋人としてでも嫌だった。もう気持ちが暴走していて、娘の気持ちを否定していることにも気づけなかった。
娘は優しい子だった。私の気持ちを逆なでしないように、彼の話は避けている。それでも時折、スマホを覗きこみながら嬉しそうに微笑んでいるのを見ると、あの男からの言葉が送られているのだろうかと思う。そんなものを読むなと言いたくて、でも良い母親をやめたくなくて、自分の気持ちを抑え込むのに精一杯になってしまった。
高校二年。綺麗になったなと最近よく思う。私が結婚した年齢になっていることに改めて思いを馳せた。
私が結婚したいと言った時、最初は中学三年だった。父も母も悩んだと思う。中学生の恋が長続きする筈がないと、皆から聞かされた。
今、娘の何気ない言葉が小さな棘となって心に突き刺さっているような気がする――。
【了】 著作:紫 草