結婚、という言葉は自分にとってとても重いものだ。
妻になる女と出会ったのは、中学二年の春だ。可愛い子だった。当時、生徒会の役員をしていたこともあり新入生の世話をする機会が多く、その担当クラスに彼女はいた。
あまり憶えていないが、軽いノリのような感じで付き合わないかと声をかけた。まさか将来、結婚することになるとは予想だにしなかった。
時の流れは早い。
いつしか親となり、娘は高校生となった。自分が入籍したのは十八の誕生月だ。あと一年。彼女も同じ年となる。
恋人の一人や二人、と言いたいところだが、あの子は妻に似て人見知りの激しい子だった。まさかサラリーマンの恋人を作るとは……。
娘の体には傷がある。
たぶん一生消えないものだ。彼女自身はとてもシンプルに物事を考える子だったため、傷痕をマイナスなこととして捉えてはいない。しかし母親は違う。この痕で損をしてしまったら、と育てながらずっと負い目に感じ続けてしまった。
その娘が初めて好きな人と言って見せてくれた写真には、忘れたくても忘れられない男の顔が写っていた。神様は残酷なことをする。妻があの男を認めることなどないだろうに――。
あの傷痕をつけた張本人は、今時のイケメン男子に育っていた。
娘の嬉しそうな顔を見ると、自分は許してやりたいと思う。
事件当時。歩き煙草をする大人など大勢いたわけだし、人混みで吸っていた者も多かっただろう。
だからといって許せるわけではなかったが、その後の彼のとった行動は親としては有難いと思えるものだと医師に聞いて憶えている。
しかし、どういうわけか。妻はそのあたりのことを何もかも忘れてしまったようだ。一緒にいたことでの後悔もあるのだろう。思うように傷が治らなくて、ケロイド状になるという体質だったことも不運だった。ましてや、その時の加害者と被害者が恋に落ちるとは……。
妻の怒りは日に日に増している。
母娘は次第に話もしなくなり、自分には八つ当たりのように冷たい言葉が投げつけられる。
困ったものだ。
「お父さん。私、夏休み終わるまで、彼のところに行ってくる」
いろいろなことが動き出すきっかけは、娘のその言葉だった。
すでに母親とは会話がないため、言ったのはその時が初めてだろう。娘の真剣さは分かった。だからこそ妻には内緒で、三人で会おうという話をした。
初めて、と言ってもいい譲歩に娘は驚きを隠せないような顔をしたあと、お母さんは怒らないかと聞いてくる。どこまでも優しい女の子だった。
「いいよ。まず僕が会おう。君はそこで話されることに、口を挟まないこと。約束できるか」
たぶん、その含みのある言葉には気づかなかったのだろう。簡単に分かったと答える彼女に、少しだけの罪悪感を残し段取りをつけた。
結論からいえば、何も語ることはなかった。
写真の中で笑っていたあの時の彼は、自分の姿を見た刹那、娘がどんな存在なのかを悟った。
そして改めて謝罪の言葉を口にする。この男もまた、優しい人間に育っていたということなのだろう。当初から男のマンションへ行くことになっていたので、そこまでは二人が話しながら歩いた。それを聞きながら、自分のことを振り返る。中学高校の恋を否定することなどできない。自分も最初にプロポーズしたのは高校に入った年だったのだから。
綺麗に片付いたワンルームマンションだった。入り口も集中ロックがあり、平日には管理人がいるようだ。ひとまず最低限の確認のあと、フローリングに座った。ソファはなく窓際にベッドと壁に向かってパソコンデスク。中央には小さな食卓、そして椅子が二つある。
綺麗だと思ったのは、物の数が少ないこともありそうだ。この部屋にはテレビがない。パソコンがあるので、兼用にしているのかもしれない。食器棚だろうと思う場所にも食器は少なく、本が並べてあった。
「確か、山中恭介君だったね」
二度と口にすることはないと思っていた名を呼んだ。彼は小さく、はいと返事をしただけだった。
「桃華は、あの時の子だったんですね」
暫くして言いながら涙を流す彼を見て、何とも言えない気持ちになった。
そして、あの事件を忘れないために医療器具の販売をする会社に入ったこと。人を傷つけてしまった償いにボランティアで近所の介護ホームによく出かけていることを聞く。
彼も未成年、十八の高校生だった。救急車が来る前に、近くのコンビ二で氷を買って娘の傷に当てていてくれたお蔭で、火傷そのものはそれほど酷くならずに済んだ。病院まで付き添ってくれて、狼狽えて何もできなかった妻に変わり症状の説明や警察への連絡も全て自分でやってくれた子だった。
許せる、と、その時思った。
傷は消えない。もしかしたら、それが原因で別れてしまうかもしれない。そんなことは分からない。
でも今は、信じてみようと思った。高校生になった娘が恋人との時間を過ごす、その貴重な青春を奪うことはあってはならないのではないかと思う。
かつて高校生での結婚を認めてくれた両親への感謝を、この形で返すことになるのかもしれない。
母親への連絡は毎日必ずすること。ちゃんと帰ってくること。勉強も塾もさぼらないこと。言い出したらキリがない。
その時、うすうす感じとった桃華自身にも覚悟が生まれた顔を見た――。
【了】 著作:紫 草