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昔。
そう、幼稚園に通っていた頃。
殆んどない記憶の中に、一人だけ鮮やかな印象を残している人がいる。
週に三日あったお弁当の日。
その子はいつも幼稚園から菓子パンを渡されていた。
後から、お弁当を持ってこられない日は幼稚園に頼んでおくと用意してくれるのだと知った。けれど、三年間のその日に一度もお弁当を持ってこなかったのは、その子だけだった。
年小の夏頃だったろうか。
少し意地悪な子が、どうしていつもパンなのかを聞いたことがあった。その子は何も答えることがなく、苛ついた子が手を出して喧嘩になった。というか、一方的に叩かれていた。
それでも、その子は何も言うことなく先生が止めに入った後も、何もなかったような顔をして椅子に座っていた。
そんなことがあったからか。みんな、少しずつその子と距離を置くようになっていった。優しい子だったのに。いつも一人で教室の隅にいて本を読んでいるイメージが残った。
年中になって、秋の発表会で一緒の班になった。
同じ画用紙に絵を描くことになって、初めて話をするようになった。その時の印象はない。
ただ別の子がふざけて机に置いてあった絵の具のパレットを私の洋服につくように落としてしまった時。落とした張本人は自分のせいじゃないと先生のところに走って行ってしまったのに、その子は持っていたハンカチでついた絵の具を拭いてくれようとした。結果的には全然とれなくて、泣き出してしまった私に先生が話を聞きに来た時も、ごめんなさいと謝っていた。その子が付けたわけではなかったのに。
絵の具は水性だったから、すぐに洗えば綺麗に落ちたのだけれど、何となく汚れを広げてしまったことに責任を感じているように見えた。
年長になって卒園の発表会では、後ろでパネルを支える役を一緒にやった。
主役や科白のある役をやりたがる子たちと違って、後ろで座っているだけで楽チンでいいねと話していたことを憶えている。
でも劇の科白を全部覚えていることを私は知っていた。
小学校に上がったら同じクラスになることはなく、次に一緒になったのは高校受験に向かう準備のために集められた教室だった。
そこで同じ高校を受験するのかと知った。久しぶりだったけれど、その子は朝の時間やみんなとの集合場所なんかを先生と相談して、みんなとも和気藹々と決めていて当日は頑張ろうねなんて言葉まで出て、和やかな雰囲気だった。
試験当日も、同じ教室に通されて英語ができなかったとか。数学はヤマが当たったとか話していた。しかし無事入学を果たした高校でも、同じクラスになることはなかった。バレー部に入った私とは違い、その子は運動系に入ることがなかったので部活も殆んどしていなかった。
縁がありそうでない。
でも気になる存在ではあった。
彼は、どうしていつもそんなに強かったのだろう。そんなイメージだけが強烈に残った。
大学は別になった。
もう二度と関わることのない人になった、と思った。
しかし、事ある毎にその存在を意識するようになった。彼ならこんな時、どうするだろうと……。
そして気付いた。
好きだったんだ。
告白もない。二度と逢うこともない。
そんな人を好きって気付いても、もう遅い。
でも彼の影を消し去るまで、恋はできそうもない。
彼はどうして一度もお弁当を持たせてもらえなかったんだろう。
当時の小学校では運動会に親子給食といって校庭でお弁当を食べる時間があった。
でも親のいない子や、都合が悪くて来られない親の子は教室で食べていいことになっていたから、きっと彼もそこにいたのかな。
高校では毎日パンが売られている。彼の姿がそこにない日はなかった。
大学では学食があるから困ることはないだろう。
ただ手作りのお弁当を食べたことがあるのだろうかと、ふと思った。
お母さんの作る暖かいご飯を食べることがあるのだろうかとも。そう思ったら、涙が流れた。
私は彼にどんな家族がいるのか、どんな暮らしをしているのか、何も知らない。
幼稚園の頃から知っているのに。
なのに何も知らない。
許されるなら、もう一度逢いたい。話がしたい。知りたいことがいっぱいあった。
どうして何も聞かないまま、時を過ごしてしまったんだろう。
子供の頃は、逢えなくなるという感覚がなかった。高校でも同じ学校に通学するという安心感は自分の気持ちにベールをかけた。
いなくなって初めて、その存在の大きさを知る。
今、どこで、どうしているのだろう。
「何、黄昏れてんの?」
ファミレスのボックス席。
頭の上から降ってきた言葉。
このお店の制服に身を包んだ姿。
「あ!」
どう言えばいいのだろう。
ずっと逢いたいと思っていたのだと、話したいと思っていたのだと。どんな言葉で伝えたら、分かってもらえるのだろう。
「あなたに逢いたくて」
「松田聖子の歌じゃん」
いや、そうじゃなくて。
その時、どこかの席からのベルが鳴る。
「ゆっくりしていって。じゃね」
そう言い残して、離れていった。
何も言えなかった。
でも分かった。ここに来たら逢えること。そして待っていたら、今日話ができるかもしれないこと。
「山野君。話がしたい」
食器を下げに来た時に声をかけた。
「いいけど。終わるの、十一時だよ」
「待ってる」
慌てて母にメールを送る。今日はご飯要らないって。でも、もう七時過ぎてる。後で叱られるな。
追加注文しよう。テーブルには珈琲カップしか残ってない。
大学は何処なんだろう。
家はきっと近くよね。去年まで高校が一緒だったんだから、引っ越してない筈。
もうすぐ試験週間になるけれど、バイトはどうなるのかな。
何より、彼女はいるのかな。
そう思ったら、また涙が流れた。
「泣くなよ」
え?
耳もとに届いた囁き。
気付いた時には、もう離れていた。
このお店には時々来ている。
今までも彼はいたのだろうか。
どうして今日は声をかけてくれたのだろう。
そして一つ、分かったことがある。
もし彼が私に気付いていたとしても、私は気付いていなかったのだから「逢って」はいない。何度、見かけていたのかは分からないけれど、「逢えた」のは今日だ。
逢うということは、互いに目を見て認識した瞬間に訪れる邂逅のようなものだ。私はその邂逅を見逃してしまっていたのだろうか。
私は何を話したかったのだろう。
再会できたことで、一人で舞い上がってしまった。彼にとって私は幼馴染みってところだろうか。それともただの同窓生。
今日一日。私の人生で、きっといろいろなハードルや階段や壁があったんだと思う。それを一つずつ叩き壊したり、よじ上ったり駆け上がったり、そして今此処にいる。
折角の神様の計らいだ。
いろいろな話をして、彼をちゃんと思い出にしよう。そして、いつの日か、しっかりと追憶することができるように――。
【了】 著 作:紫 草
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