特別篇 最終章 莉玖
実玖が子供を産むという。
果たして自分はそこに関わってもいいのだろうか。入籍はまだしていない。父には母のことはもういいから、入籍して引っ越すように言われたのだが、問題は母だけではない。
皐月はきっと追ってくる。否、彼女だけのせいじゃない。近づけてしまったのは自分なのだ。皐月が無理難題を言ってこないのをいいことに、ずるずると近づけてしまったのは誰でもない、莉玖なのだ。
人の心は弱い。でも幸せになりたいと思う気持ちは、みんな同じだと思う。
そして実玖の妊娠だ。
いったい、どうしたらいいのだろう……
子供の頃から、ずっと我慢ばかりをしている子だった。実玖が我が儘を言ったのを聞いたことがない。だからこそ今回、どうしても産むと言った言葉を受け入れる。
汐莉は鋭い。確かに三年前、実玖は堕胎を経験している。相談はなかった。ただ結果を知らされただけだ。
どこの家庭にも多かれ少なかれ問題は起こり、日々それを解決しながら暮らしている。普通の家庭などと言いながら、本当に何の問題もない普通の家庭などありはしない。
しかし我が家は違った。何故、家だけがと思ったことも一度や二度ではない。隣人から受けた多くの出来事は、実玖の強さが乗り越えさせたようなものだ。自分と一緒にいたいと思ってくれた。その想いに感動を覚えた。
普通の家庭の味は分からない。ただ特別な家庭だったからこそ、兄妹と呼ばれる間柄で恋愛ができたのかもしれない。
子供の頃は勢いで好きという気持ちを暴走させそうになったこともある。今思えば、そのまま高校生で結婚した方が余程よかった。でも誰も望まなかった。両親にも学業を修めることを最優先と言われていたし、自分たちも大学まで進むつもりだったから。
まさか、その後の人生が、こんなに過酷なものになるとは思わなかっただけだ。
子供の時間は過ぎ大人の時間になっても、莉玖と実玖は子離れしてくれない母に振り回されている。妹の汐莉の方が余程自然体で生きている。
今回、引っ越そうと思ったのは職場が少し移転をしたことで通勤に時間がかかるようになったからだ。父が、この際だからマンションでも買ったらどうだと言ってくれて、それならと物件を見に出かけた。
ちょうど造っている途中のマンションがあったのだが、実玖は中古マンションでいいという。式どころか、入籍の話も宙ぶらりんの状態でマンションだけ買うのもどうかと思うと、決めきれずにいた――。
実玖を攫ってしまえば良かった。簡単に言ったら駆け落ちだ。それが一番単純で、みんなが幸せになったんじゃないだろうか。学生には難しくとも大学なんて退学してしまえばよかった。
あの人のことを考え、この人を思いやり、そして実玖を不幸せにしてしまった。自分のしたことは何だったんだろう。
多くの人との約束は柵(しがらみ)でしかなくなってしまっていた。
少し前、赤川基義と会う機会があった。
皐月が秘密にしてくれと言ったから親子鑑定の話はしていなかったが、隣との関わりは続いていた。家を出たまま結婚したという話は聞いたものの、式も挙げなかったから基義には何年も会うことはなかった。ただ彼自身に子供が産まれたことで実家に帰ってきたのだそうだ。
そこで小母さんの爆弾発言があった。
その場には皐月も当然いて、基義の嫁さんと嫁さんの祖父母という二人も揃っていた。
そこで孫の誕生を喜ぶ皆の様子に母親が馬鹿々々しい、とブチ切れたと基義は話した。
『孫など可愛くない』
そして自分の血を分けた子など一人もいないのだからと言ったらしい。
そこで皐月も初めて自分は他人の子だと告げた。小父さんは寝耳に水だったようで、詳しく話せと詰め寄っていたという。そして小父さんとの受精卵では妊娠することはなく、病院が保管していた受精卵を使ったのだと打ち明けられた。
皐月はどうしていたかと聞くと、彼奴は何も言わずに赤ん坊をあやしていたという。基義も嫁さんも言葉を失ってしまっているのに、親父さんは怒りで殴らんばかりに責めているというのに、御客様の祖父母も年の功だけあって喚きたてることなどはなかったらしいが、呆れているのは想像に難くない。
『彼奴、変わったな』
基義が、お前にこんなこと言うのは申し訳ないけれど、と言いながらため息のように呟いた。
基義の中でも葛藤はあった。彼自身も父親と血の繋がりがあることを知り悩んでいたし、その頃は皐月を毛嫌いしていたから。
確かに皐月は強くなった。自分の感情と向き合って、莉玖との関係にも節度をもって、いつの間にか誰よりも成長した姿を見せた。
そんな話を聞いたからだろうか。
純粋に皐月を幼馴染として見てみようかと思い始めた。母のことも少しは気づいているだろうが、実玖とのことも正直に話せばいいのかもしれない。
自分の出生を一人で乗り越えてきた今の皐月なら、もう人の道に外れたようなことはしない気がしてきた。
何も環境が変わらないと思う日々も、赤ん坊はそうではない。一日一日育っていく。
莉玖がもう待てないと思ったのは、戌の日の祝いをする話を聞いた時だ。もう覚悟を決めよう。母の心は父が受け止める――。
「実玖。俺と結婚して下さい」
リビングにみんなが揃っていた。
父と母と汐莉、そして実玖と莉玖。
大きくなり始めたお腹を優しく撫でている実玖に、改めて正式にプロポーズをした。母の様子は気になったけれど、今は実玖からの答えの方が大事だ。
実玖はすぐには何も言わなかった。
母を見て父を見て、そして汐莉を見た。父と汐莉は黙って肯いてくれる。実玖は逡巡するような顔を見せる。
以前なら、ここで実玖だけでなく皆のことを考えて先回りするようにもう答えなくていいと言ってしまっていた。でも今日は言わない。
胸中に成竹ありの思いでプロポーズすることにしたんだ。もう待たせないし、待たない。
どのくらい俯いていたのだろう。
誰も口を利かなかった。実玖の返事をただ待った。
「莉玖はどうして実玖に結婚を申し込んでるの?」
ついに母の感情が脳に追いついた。父が母を連れて部屋を出ていく。
「どうして? どこに行くの?……」
父は何も答えないまま、そのまま二階に上がっていったようだ。
再び静寂が訪れた。
暫くして汐莉が腰をあげようとした時に、実玖が口を開いた。
「りっちゃん。どうもありがとう。お嫁さんにして下さい」
刹那、汐莉がおめでとうと言って抱きついてきた。
「おい。何でお前がくるんだよ」
だってだって、とすでに半泣きになっている。
お前にもいろいろと心配かけたからな。頭を撫でてやるとパパに言ってくると汐莉が部屋を出ていった。
テーブルを回って、実玖の前に移動する。
「基義も一緒に皐月と話したよ。もう大丈夫だ」
「皐月はもう随分前から変わってたから心配してなかったよ。怖かったのはママだけ」
実玖の顔にはやはり全てを吹っ切っているわけではないと思わせる陰りがある。でも決断してくれた。今はそれだけで充分だ。
お腹の中にいても、もう赤ん坊はいろいろ分かっていると聞いた。それなら尚のこと、早い方がいい。
そして、この日から五ケ月後、実玖は元気な男の子を産んだ――。
準備は楽しい。
出産も結婚式も。ただ結婚式だけは早々に近所の教会で挙げた。お腹が目立ってしまう前にと。
その後、悩んでいたマンションの購入を決め引っ越すと、皐月が手伝いに来てくれた。
母の様子は相変わらずだ。しかし皐月の母親に比べたらマシだろう。小母さんはまた入院しているらしい。そして、とうとう離婚の話が決まりそうだという。どんな選択をしても皐月には酷な話になる。
皐月と話した時、誰も知らない所に行って一人で生きていくつもりだと言われた。実玖は彼女のそんな気持ちを感じとっていたのかもしれない。だからだろうか。マンションを決めると引っ越しと出産を手伝って欲しいと皐月に頼みに行くと言った。
泣きながら頷く皐月に、ずっと友達だからと話していた。
親の代とは違う。
皐月には小母さんの血は流れていない。なら小母さんのようになる筈がない。
自分たちもそうだ。母は少し心が弱かった。それは莉玖を大切にし過ぎたからに他ならない。今は父と汐莉との三人家族で穏やかに暮らしているそうだ。
人の世はままならない。一歩踏み出せば後退を余儀なくされ、ここぞとばかりに英断したつもりでも奈落の底に叩き落とされる。
それを上回る幸せは実玖と一緒にいられることだ。
親になる。
責任を持つ。
何があろうと離れない。
皆で幸せになる為に――。
【了】 著 作:紫 草