『君戀しやと、呟けど。。。』

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『溺れゆく』その伍

2018-03-05 08:21:42 | 小説『溺れゆく』
カテゴリー;Novel


その伍

 翌朝。
 バイトの診療を終えた葛城は、真帆の支払いを済ませ医院を出た。
 何と声をかけたらいいものか。皆目、見当もつかない。
 一方、真帆も何も言わないまま歩き続け、暫く行った所で唐突に振り返った。
 そして深々と頭を下げる。
「真帆……」
 そのまま彼女は何も言わず、立ち去った。

 ちゃんと家へ帰れ。
 そう言おうとして止めた。
 家に居られるなら、栄養失調にはならないだろう。無理矢理握らせた五万円というキャッシュが彼女の命を繋ぐ役に立てばいい。
 葛城は心の底から、そう思った。

 それにしても何故、ここまでしてやるのだろう。
 彼は自問自答する。
 一回り以上も年の離れた、少女とも呼べる女に何かを期待するわけじゃない。
 ただ、助けてやりたいと思った。それだけだ。
 葛城の苦手な朝は、真帆の残り香を含んでいた――。

 とある日の午後。
 葛城を引っ叩いた以降、音沙汰のなかった瀧川瑞穗が突如病院に現れた。
 葛城の脳裏に真帆のことが浮かんで消えた。
 今頃、何処にいるだろうか……

 一方、瑞穂は誰の案内もなく医務局まで入ってきた。
 医師仲間でのコンパで出会ったのだ。この日の午後が休診になるのは百も承知だろうし、多くの医師は見知らぬ女を見ても、患者でないと判断すると無関心になってしまう。
 瑞穂は少し時間をくれと言い、待合室で待っているからと勝手に決めて出ていった。
「葛城先生、もててるね」
 同期の女医がからかってくる。
「やめて下さい。思い切り引っ叩かれて振られた女ですよ」

 仕事を終え関係者出入口に向かう。躊躇しないわけではなかった。たぶん、彼女が待っていると思ったから。この時間に何処から出るのか。彼女は知っている。
 しかし院内に残っていると残業になる恐れもある。というか、可能性は九〇パーセントを超えるだろう。そう思いながら歩いていくと、彼女の方が先に葛城を見つけだした。
 仕方なく、瑞穂の後を追う形で院を出ることになった。

 瑞穂が足を止めたのは、近くにあるフル営業のファミレスの前だった。
 葛城の顔を見て、入っていいかの意思表示をする。どちらにしろ、ここまで来て「ハイ、さようなら」というわけにもいくまい。
 彼女を追い越す形で先に店に入り案内された席に座ると、当然のように向かい合う場所に彼女も陣取った。

 ドリンクバーを頼み、コーヒーを淹れて運んできた。
 彼女も同じように赤色のジュースを持ってきた。暫く、葛城がコーヒーを飲み切る時間くらいは二人は無言のままだった。二杯目の、今度はメロンジュースを持ってきてテーブルに置く。
 息が詰まる。
 葛城はそう感じた。同じ沈黙でも真帆との時はそんな風に感じたことがなかったな、と苦笑する。

「ごめんなさい」
 唐突に彼女はそう言った。
 何の話だと思っていると、何度も続けて謝っている。
 ただ謝る。
 彼女の言う「ごめんなさい」が何を指し示しているのかも言わないまま。

「何も言ってくれないのね」
 ほんの少しの沈黙の後、彼女の謝罪はこの一言を区切りとして終わったらしい。
「君が何に対して謝っているのか、俺には分からない。あえて言うなら君に話すことはない」
 葛城の言葉は、これだけだった。
 すると瑞穂の顔は歪み泣き始めた。

 ファミレス内の空気がざわめく。
 当然、泣かせていると思われているんだろうな。
 葛城は重い溜め息をついた。
「悪いけど今夜から夜勤になるんだ。失礼する」
 それだけ言って無造作に伝票をつかむと立ちあがる。

「待って」
 彼女の声が辺りに響く。
「もう少しだけ話を聞いて」
 断わる、と言える雰囲気ではなかった。
 失敗したな。
 葛城は何度目かの溜め息をつき、再び腰を下ろした。

「待っていたわ。あなたからの連絡を。でもなかった。駆け引きのつもりだった。私をもっと好きになって欲しいって」
 最后に、でも引っ叩いたのは失敗だったと添える。
「そのまま終わるなんて思ってもみなくて。ひどいことをしたわ」
 瑞穂はそう言うと頭を下げた。

 もし、あの日。
 瑞穂と別れた直後、真帆と出逢っていなければ今の言葉をどう聞いただろう。もしかしたら、このままヨリを戻したかもしれない。
 彼女には水帆という名を告げてはいなかった。それでも同じミズホという名を持つ女性に何かしらの縁を感じてはいた。いつか真実の名を告げる時に、どんな反応をするかを想像をするほどには。

 ただすでに真帆を知った今、瑞穂の存在が特別になる筈もなく、薄っぺらな感情しか残っていない。

 葛城は自覚する。
 愛しているのは、真帆だと。

 恋に駆け引きは必要だと思う。男だって女だって、自分を売り込む手段をアレコレ考えるもんだろうし、反面間が悪いという言葉もある。
 自分の場合はまさに後者だな。
「もう君を女という枠で見ることはできない」
 今度こそ、葛城は席を立つ。
 瑞穂がどんなに泣きじゃくっていようと、後ろを振り返ることはなかった。

 この時、再びこの瑞穂に会うことになるとは夢にも思わなかった。
 そして今の葛城の頭にあるのは、真帆を捜すということだけだった。

To be continued. 著作:紫 草 
 


HP【孤悲物語り】内 『溺れゆく』表紙
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