五年後。
東山犀は、アパートに戻ってきた。
もう彼女はいない。それは分かっている。
ただ、どうしても自分の目で確かめたかった。
あの時。
どんなに頼んでも連絡先を教えてくれなかった、京華…。
「あれ。犀君じゃないの。いつ、来たの」
「大家さん。お元気そうで何よりです」
犀は、誰にということもなく持参した菓子折りを差し出した。
「犀君、この後予定あるの」
「いいえ」
「じゃ、おあがんなさい。お茶を淹れましょう」
言いながら、大家さんは中へ入ってゆく。その後について行きながら、こんなこともよくあったと思い出す犀である。
「憶えていますか。隣に住んでいた京華という名前の大学生のことを」
「当たり前だよ。今日も、もう少ししたら来るよ」
えっ!?
「ここにですか?」
「他に何処へ行くんだい。お邪魔なら、消えてあげるよ」
大家さんは、少しだけとぼけた風に、そう言って笑う。
そして確かに数十分後、京華がケーキを手にやってきた――。
「お久し振りです」
という言葉は大家さんに向けられたものの筈だ。
しかし彼女は、犀を見ても全く驚かない。それどころか、犀の好きなチョコレートケーキも入っていると加えている。
どういうことだ。
「私は、こう見えてハイカラだからね。さっき、メールしておいたのさ」
メール?
大家さんが!?
ほれ、と言って見せてくれたのは京華と写った待ち受けだった。
「凄い。俺にもアドレス教えて下さい。ちゃんと返信しますから」
どうりで驚かない筈だ。
「京華ちゃん。元気だった?」
「はい。今は本家に戻っていますが、時々ここにも顔を出すんですよ」
そう話す京華の笑顔は、相変わらず穏やかだった。
そして初めて、彼女の素性とも呼べる内容を聞かせてくれた。
京華のいう本家とは祖父と父親、そして姉の住む家のことだと言う。
今は、母親と共に敷地の一画に建つ離れに住んでいるらしい。
曽祖父の興した小さなイベント会社を、祖父は一代で大規模なレジャーを荷う産業へと拡大させた。一族と呼べる者は、その殆んどが何処かの会社の重役になっている。
父親と姉も、地域密着型の小さなイベント会社に勤務しており、父親はその会社では社長ということになっていた。
十五年振りに帰った自宅に母と自分の居場所はなかった、と京華は言う。
祖父は相変わらず、本社の社長であり現役だった。帰宅も遅く、戻った日を除けば京華はろくに口を利いていない。
姉は我がもの顔で二人に接し、母親でありながら、小間使いのような扱いを受けた。
そんな母を見ているのが居た堪れなくなって、京華は使われていないという離れに母親と移った。
そして決心する。
「いつか、この家を出てゆこうって」
「お祖父さんは何て言ってるの?」
「何も。ただ自分の仕事の手伝いをするようにって。でも、そのせいで姉には更に虐められることになったけどね」
犀は一つの偶然を、やはり偶然ではないと認識した。
「どうしたの?」
「いや。何でもない」
気付くと本当に大家さんは消えていた。いつの間にいなくなったんだろう…
「じゃあ、今は秘書かな」
「まぁ、肩書きだけはね」
そう言って照れ笑いする京華に、犀はほっとする。
今も変わらず、はにかみ屋の京華のままだ。
「京華。お祖父さんの思惑って、考えたことある?」
彼女は少しだけ驚いたような表情を見せ、首を横に振った。
「十五年もかけて、人を見極める力を養ったんだろう。自分の目から見て冷静に答えて。お祖父さんは酷いことをしたと思うか」
彼女は即答した。
「いいえ。人間として必要なことをちゃんと学んだから。少なくとも祖父だけは、苦労を知っていると思う」
「それだけ知っていれば十分だろう。自分に与えられた仕事をこなす。社会人はそれが一番大事なことだ。人を見る目を誤るなよ」
京華は不思議そうな顔をした。
「随分、前に話したことがあったよね。ある人の援助を受けて大学に通ってるって。憶えてる?」
京華が頷いた。
「あれ、京華のお祖父さんだったみたい」
鳩が豆鉄砲くらったような顔、結構、見ものだな。
「ほんと…なの」
犀は黙って頷いて、鞄の中から名刺を取り出した。
そこには弁護士事務所の名前と共に、祖父の会社の顧問弁護士の肩書きが書いてあった。
「大学に行けることになったのも、ここに来ることになったのも、そして京華に出逢ったのも運命だと思ってたけれど、もしかしたらお祖父さんの掌の上で、俺ら踊らされていたのかもな」
To be continued
東山犀は、アパートに戻ってきた。
もう彼女はいない。それは分かっている。
ただ、どうしても自分の目で確かめたかった。
あの時。
どんなに頼んでも連絡先を教えてくれなかった、京華…。
「あれ。犀君じゃないの。いつ、来たの」
「大家さん。お元気そうで何よりです」
犀は、誰にということもなく持参した菓子折りを差し出した。
「犀君、この後予定あるの」
「いいえ」
「じゃ、おあがんなさい。お茶を淹れましょう」
言いながら、大家さんは中へ入ってゆく。その後について行きながら、こんなこともよくあったと思い出す犀である。
「憶えていますか。隣に住んでいた京華という名前の大学生のことを」
「当たり前だよ。今日も、もう少ししたら来るよ」
えっ!?
「ここにですか?」
「他に何処へ行くんだい。お邪魔なら、消えてあげるよ」
大家さんは、少しだけとぼけた風に、そう言って笑う。
そして確かに数十分後、京華がケーキを手にやってきた――。
「お久し振りです」
という言葉は大家さんに向けられたものの筈だ。
しかし彼女は、犀を見ても全く驚かない。それどころか、犀の好きなチョコレートケーキも入っていると加えている。
どういうことだ。
「私は、こう見えてハイカラだからね。さっき、メールしておいたのさ」
メール?
大家さんが!?
ほれ、と言って見せてくれたのは京華と写った待ち受けだった。
「凄い。俺にもアドレス教えて下さい。ちゃんと返信しますから」
どうりで驚かない筈だ。
「京華ちゃん。元気だった?」
「はい。今は本家に戻っていますが、時々ここにも顔を出すんですよ」
そう話す京華の笑顔は、相変わらず穏やかだった。
そして初めて、彼女の素性とも呼べる内容を聞かせてくれた。
京華のいう本家とは祖父と父親、そして姉の住む家のことだと言う。
今は、母親と共に敷地の一画に建つ離れに住んでいるらしい。
曽祖父の興した小さなイベント会社を、祖父は一代で大規模なレジャーを荷う産業へと拡大させた。一族と呼べる者は、その殆んどが何処かの会社の重役になっている。
父親と姉も、地域密着型の小さなイベント会社に勤務しており、父親はその会社では社長ということになっていた。
十五年振りに帰った自宅に母と自分の居場所はなかった、と京華は言う。
祖父は相変わらず、本社の社長であり現役だった。帰宅も遅く、戻った日を除けば京華はろくに口を利いていない。
姉は我がもの顔で二人に接し、母親でありながら、小間使いのような扱いを受けた。
そんな母を見ているのが居た堪れなくなって、京華は使われていないという離れに母親と移った。
そして決心する。
「いつか、この家を出てゆこうって」
「お祖父さんは何て言ってるの?」
「何も。ただ自分の仕事の手伝いをするようにって。でも、そのせいで姉には更に虐められることになったけどね」
犀は一つの偶然を、やはり偶然ではないと認識した。
「どうしたの?」
「いや。何でもない」
気付くと本当に大家さんは消えていた。いつの間にいなくなったんだろう…
「じゃあ、今は秘書かな」
「まぁ、肩書きだけはね」
そう言って照れ笑いする京華に、犀はほっとする。
今も変わらず、はにかみ屋の京華のままだ。
「京華。お祖父さんの思惑って、考えたことある?」
彼女は少しだけ驚いたような表情を見せ、首を横に振った。
「十五年もかけて、人を見極める力を養ったんだろう。自分の目から見て冷静に答えて。お祖父さんは酷いことをしたと思うか」
彼女は即答した。
「いいえ。人間として必要なことをちゃんと学んだから。少なくとも祖父だけは、苦労を知っていると思う」
「それだけ知っていれば十分だろう。自分に与えられた仕事をこなす。社会人はそれが一番大事なことだ。人を見る目を誤るなよ」
京華は不思議そうな顔をした。
「随分、前に話したことがあったよね。ある人の援助を受けて大学に通ってるって。憶えてる?」
京華が頷いた。
「あれ、京華のお祖父さんだったみたい」
鳩が豆鉄砲くらったような顔、結構、見ものだな。
「ほんと…なの」
犀は黙って頷いて、鞄の中から名刺を取り出した。
そこには弁護士事務所の名前と共に、祖父の会社の顧問弁護士の肩書きが書いてあった。
「大学に行けることになったのも、ここに来ることになったのも、そして京華に出逢ったのも運命だと思ってたけれど、もしかしたらお祖父さんの掌の上で、俺ら踊らされていたのかもな」
To be continued