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その拾切
大学生の滝川精一が冬の休みを利用して、温泉の住み込みのアルバイトを始めたのは友人の代理という形だった。
本来、彼はお金に困るような生活はしていない。しかし、その友人は苦学生だった。単にお金を貸すと言っても受け取る奴ではない。いつも割のいいバイトを探してきては掛け持ちしていた。
そいつが右腕の骨折とむち打ちで入院することになった。間もなく長期の休みでよかったな、と声をかけると真っ青な顔をして頼みこまれた。
今更、丸々予定のない奴なんか精一くらいしかいない、という。
人生、一度くらい人の下で働いてみろ、か。確かにそうだと思った。いつも父や親族の言いなりだと思っていた自分が如何に恵まれた境遇にあるのかを、精一は友人と出会って初めて知ったのだ。
「大丈夫。はいと、ありがとうと、ごめんなさいの練習だと思いなさい」
そう言った彼奴の顔、思い出すと笑いがこみ上げる。でも本当だった。
鄙びた田舎の温泉宿かと思えばとんでもない。ちゃんとした一流旅館で客室七十、その裏方のバイト、甘くみていたとしか言いようがない。
経験したことのない肉体労働、日々身体はくたくた。仕事上がりに深夜の温泉につかることだけが唯一の楽しみだった。
それが彼女と出会う運命の第一歩だった。
温泉としての営業時間は終了している。
だからこそ従業する身である自分が入っているんだ。なのに、彼女はその露天に入ってきた――。
天女みたいな女の子だった。
白い躯は生まれて一度も太陽を浴びていないかのように真白で、長い黒髪は腰まで届いた。
目を奪われる、とはこういうことだ。
彼女はそのまま、湯船につかる精一の許までやってきた。
「初めて話せるね」
と。
「何処かで会ってるの?」
半信半疑で尋ねる間も、彼女から目が離せない。その彼女は何を考えているのか、次第にこちらに躯を寄せてきた。
答えはない。どこで会ったのだろう。全裸であることも忘れ、魅入ってしまったかのような思いだった。
それにしても細い。
本当に、このまま消えてしまいそうな、雪女でも天女でも納得してしまいそうな、そんな感じ。とにかく人間離れしていることは間違いない。
結局、その夜から一夜もかかさず彼女は自分の入浴中にやってきて、SEXをして戻っていった。自分のことは何も語ろうとせず、貪欲に精一を欲しがった。
バイト最終日前夜。翌週の休みにも来るからと言うと、初めて否定の意味で首を振る。
「もう会えない」
「どうして」
あとは何をどう聞いても答えが返ってくることはなかった。
To be continued. 著作:紫 草
HP【孤悲物語り】内 『溺れゆく』表紙