2014年版『ゴジラ』を映画館で見てきた。
ゴジラを単なるモンスターではなく、歴史と情念を背負った存在として描いてくれたことに、まずは感謝したい。
ビキニ環礁の水爆実験が実はゴジラを殺そうとする試みであったり、福島の原発事故を想起させるシーンがあったり。
1954年のゴジラが空襲や原爆の記憶を背負っていたように、このゴジラもまた生々しい記憶を背負っている。
しかし何のためにゴジラは記憶を背負うのだろうか?
なぜ人は、ゴジラを通して悲しい記憶を見たがるのか……。
そう考えてふと思ったのは、ゴジラを見て自分が安心していたのではないか、ということだ。
思えば我々の生活する街々は、いつ消滅するかわからない、もろいものだ。
空襲を受けて燃える街のように、原子爆弾で消し飛んだ街のように、地震と津波に呑まれた街のように。
その街々に住み暮らしていた人々は、自分にそんな運命が降りかかるとあらかじめ予測はしていまい。
ならばいま、のんびりとパソコンに向かっている私の、あなたの、誰かの街が、明日は消えてなくなっていても何の不思議もないのだ。
上水道があり、電気があり、ガスがあり、明かりがつき、温かくも涼しくもなる快適な生活。だがその生活が、何かのきっかけで粉々に破壊されるのではないかと……それどころか、自分自身とその周囲の人間の命まで脅かされるのではないかと……常に恐れている、心のどこかで。私もあなたも。
ゴジラは、その恐れを具現化してくれる。
整然と立ち並ぶビル群を、「これはいつかこうなる運命のものなんだよ」とばかりに、なぎ倒してくれる。瓦礫の山に変えてくれる。
それを見て私は安心するのだ。ああ、そうだったのだ。あの街もこの街も、いつか消えてなくなるのだ。
ゴジラ……人の心に住む不安を世界中から集めて煮詰めたら、このカイジュウになるのかもしれない。
実体のない不安が、カイジュウになって輪郭が定まることで、人は安心する。
だが、これはかなり危険な安心の仕方であることは間違いない。
ゴジラはゴジラ、現実は現実として、現実の問題に対処していかないといけないね。当たり前だが。
あと……ゴジラが人類の救世主、という描かれ方をしていたが、個人的にはゴジラは人類にとって敵でもなければ味方でもない、という位置づけのほうが好みだな。
人類の味方になると、『ガメラ2』とイメージがかぶってくる。
まあこれは、好みの問題と思う。