2 イエス・キリストの顔の中に神を見る (2)
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ここで私たちは、「イエスを見る」とは実際に言ってどのようなことであるか、自らに問い
かけねばならない。おそらく、それがどのようなことではないかを調べることが、私たちの理
解の助けとなるであろう。
イエスを見るということは、神秘的な方法で彼を見たり、いろいろなビジョンを見ようと努
力することではない。
ある人がイエスを見ているかと尋ねられた時に、「ええ、いつでも私は心の中で、イエスの
肖像画を描こうと努めています」と答えたということである。
ある人たちはビジョンにつかれているが、ビジョンは追及されるべきものでも、誇りとされ
るべきものでもない。パウロは自分が見たことについて非常に控えめである(第二コリント12・1-7)。
ビジョンを見たということは、必ずしも他の者よりいっそう主イエスを知っているということ
にはならない ー 場合によってはそのことが妨げとなりうるのである。
それだけでなく、私たちはキリストとその愛を、ただ客観的に考察したり、真理を単に学問
的な喜びとして学んだりすることが必要であると考えてはならない。聖書研究は重要であるが、
実を結ばないという不思議な現象を伴うこともありうる。聖書研究に当たる人が、人を変貌さ
せる主イエスご自身のビジョンを必ずしも楽しんでいるとは言えないのである。- 聖書を通し
て日ごとに忍耐深く神を待ち望むことなしには、あまり深い神知識に至らないのはもちろんの
ことであるが。
イエスを見るとは、私たちの現在の必要を満たすおかたとして彼を理解し、その意味での彼
を信仰をもってとらえることである。私たちは必要という目を通していつでも主イエスを見る
ことができる。彼は聖書の中で、学究的な考察と喜びの対象としてではなく、罪人および弱き
者として底なしの必要を満たすおかたとして提供されている。そのため私たちが必要を認め
罪を言い表すことが、いつでもイエスを見ることの第一歩となっている。したがって必要が認
められた場合には、聖霊は喜んでその人の心に、その必要を適確に満たすおかたとして主イエ
スを示されるのである。この主イエスの啓示については、聖書を通してなされるのが原則であ
る。しかし、しばしば他の方法 ー ほかの人のあかし、讃美歌の句、あるいはこれらの方法を
いっさい抜きにした聖霊との直接交渉 ー によってなされることがある。そうすると魂は、御
霊がイエスについてお示しなった事情を信仰をもって自分自身に当てはめる。その結果今まで
の心労、緊張、罪意識、恐れ、悲しみは飛び去って、「われらの口は笑いえ満たされ、われら
の舌は喜びの声で満たされる」(詩篇126・2)のである。
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