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「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)から-10-

2019-05-16 10:43:58 | 読書

4.真理として神を見る(3)

p51

 

・・・真にイエスを見ることは真理を見ることにほかならない。

真理としてのイエスをどこで見るかと尋ねられたら、その至高の姿はカルバリの十字架上に

あると答えたい。私たちはそこにおいて、罪、人、および人の対決すべき神についての裸の

真理を彼のうちに余すことなく見る。十字架は人に対する最も豊富で甘美な神の恵みを現わ

すと同時に人間についての真理を最も鮮明に描写している。もし恵みがカルバリより流れ

て来るとしたら、真理もそこから来るに違いない。なぜなら「めぐみとまことは、イエス・

キリストをとおしてきたのである」から(ヨハネ1・17)。

 

 ここで以上のことを例証してみよう。患者は医師の異常な関心と最悪を予想させる処置を

見て初めて、自分の病気の重さがわかる。まだ検挙されていない法律違反者は、自分と同じ

罪状を持つ他の者に科せられたきびしい判決を読んで、その時までは自分の犯行を軽く見て

いたのが、どのようにきびしい態度で法律が時分に臨むかを知る。また無頼のむすこは、自

分のために母親がどのように苦しみ悲しんでいるかを知って、自分の歩いている道の実情を

判断するようになる。

 

 イエスは十字架の上から、「ここを見て、あなた自身の状態を知りなさい。私はあなたの

ためにこのような恥を負わなければならない」と言っておられる。きよきおかたが私たちの

立場をとって罪を負われた瞬間に、御父に罰せられ、そのお苦しみの時に捨てられたとした

なら、私たたちの真の状態はどのように恐ろしい審判を引き起こすだろうか。

 聖書は、イエスが「罪の肉の様」(ローマ8・3)をとられたとしるしている。このことは彼

私たちの似姿として十字架につかれたことを意味する。しかしもし彼がその似姿になった

瞬間に「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)と

叫ばざるを得なかったとすれば、神の目より見た私たちの姿はいったいどのようなもので

あろうか。神が御子を私たち人間として見捨てられたのである。似姿の上になされたことは、

いつでもそれが代表する者の上になされたものとみなされる。神の憤りの下にあって苦悩す

るあの見捨てられた像は、最悪の者も最善の者も総括しての私たち自身をさしている。私た

ちは皆、そこに、キリスト者と非キリスト者を問わず、私たち全体についてのむき出しの真

理を見る。人についての神の評価が他のどこにもないとしても、十字架だけにはそれが見

いだだされる。私たちをへりくだらせる苦痛に満ちた真理は、まことにイエス・キリストに

よって来たのである。それは私たち自身についてのあらゆるむなしい錯覚をくずすのに十分

である。

 

 私たち自身についての真理がイエス・キリストによって来ただけではなく、神についての

真理と私たちに向かう神の愛もまた彼によって来たのである。もし私たちが自己の判断に任

せられていたら、私たちの罪意識は、神が私たちの敵であって大きなつえを持つおかたであ

ると私たちに知らせるだけであったろう。(※神様は裁き主であることしか判断できなかっ

たであろう)私たちは神を見るのに、人のためさまざまな道徳の標準を定め、しかもそのほ

とんどがあまりにも高いので、もし私たちが失敗したらとがめざるを得ないおかたとしてだ

け考えることだろう。そこには私たちを神に引きつける何ものもない。

 しかし主イエスの十字架は、このような考えが皆誤っていることを指摘し、神の真の御姿

を示してくれる。私たちは予想い反して、神が私たちを罪のために責めるのではなく、私た

ちのために、ご自分の御子を責められるのを見る。「神は、キリストにおいて世をご自分

に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをされなかった。」(第二コリント5・19)

 私たちが大きなつえ(神の裁き、または、律法など、私たちの罪を知らせるもの)と考え

ていたものは、実は私たちをご自分のもとに招き寄せるための、伸ばされた愛の御腕であっ

たのである。

 私たちのためにそこなわれたイエス・キリストの顔の中に、私たちは神が罪人に対抗する

おかたでなくて味方であること、敵ではなくて友であることを知る。また神がキリストにあ

って、及ぶことのできない新しい標準を定められたのではなく、既存する律法のあらゆる標

準に及びえない人々に、ゆるしと平和、新しいいのちを与えとして近づかれたことを知る。

「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてき

たのである」。ある著者はこの箇所を読んで、「十字架の示す驚くべき寛大さ」と言った。

それは私たちの罪意識を驚かせるばかりでなく、私たちを溶かして引き寄せる。そして、私

たちを待つものは神のあわれみだけであることを知らせ、私たちが誠実と悔い改めとをもっ

て神のみもとに帰るようにと促すのである。


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