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「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)から-9-

2019-05-15 09:28:10 | 読書

4.真理として神を見る(2)

p48

 

 悪魔は今もなお私たちの回りに相変わらず偽りのくもの巣を巻き付けている。彼は私たちが

善良な人間であり、敬虔なキリスト者であるから、自分自身の生活について気にかけることは

少しもないと言っている。また神というおかたは額面どおりにはきよくなく少しぐらいは妥協

されるかただと偽り、あるいは神は私たちを愛しもせず、公平に扱ってはおられないと言う。

そしてこの言葉を信じてしまうところに、相変わらず私たちの悲劇がある。そのため私たちは

物事のありのままを見る視力を失い、自己について全くの錯覚状態に陥っているのである

 

 とは言うものの、この責任が皆悪魔にあると、彼だけをきめつけてはならない。私たちの心

の中には彼の忠実な味方がいるからである。ヨハネ第一の手紙1章には、私たち自身についての

錯覚状態を築き上げる段階が三つしるされている。

 その第一は、6節の「偽っているのであって、真理を行っているのではない」という句にでて

いる。これは言い替えれば、ありのままでない自分自身についての印象を他に与えるということ

である。このようにして、私たちはたとえ実際には偽りを言わなくても、偽りを演出しているの

である。おそらく私たちのうちには長年の間仮面をかぶり芝居を続けている者がいることだろ

う。そのようにすることは少しも不思議ではない。なぜなら「悪を行っている者はみな光を憎

む。そて、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない」

(ヨハネ3・10)と言われているからである。私たちは自分自身について隠しておきたい多くの

ものを持っているのである。

 次の段階は8節にしるされている。「自分を欺く・・・・・・、真理はわたしたちのうちにない」。

この句は、私たちがあまりに長い間偽りを演出してきたので、自分自身の偽りを信じ込むように

なったことを意味している。他を欺いていたのが、自分自身を欺く結果を招いたのである。私た

ちは今まで(うわべを)繕っていたとおりの人間であると信ずるようになる。私たちは「だれも

傷つけたことはない」こと、他の者のようにねたみ深く高慢でもないこと、全く主にささげられ

た者であることを確信している。ほかの者のようではないことを神に感謝したパリサイ人は、自

分がほんとうのことを言っていると思い込んでいた。彼はほかの者同様、貪欲な者、不義な者、

不品行な者であったけれども、その心は自分自身を偽っていた。彼は私たち同様、錯覚の世界に

住んでいたのである。

 第三は10節の「神を偽り者とする」という段階である。今までの状態は、神が私たちの罪と

私たちの真の姿をお示しになる時に、「主よ、そうではありません」と自動的に答える場所に

私たちをく。私たちは神が間違ったことを言われたのだと思う。神は自分ではなく、他の者を

さしておられるのだと考える。もちろん私たちは皆、理論の上では、自分自身が罪人であること

を認める。しかし神が私たちに接近して、説教や友人の忠実な勧告により、私たちの心が「よろ

ずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」(エレミヤ17・9)こと、特に私たち

人格の一定の面でそうであることをお示しになると、そのとおりであると認めることができ

ない。しかし私たちが罪を犯したと神が言われる時に、そうでないと言うことは、神を偽り者と

することになる。私たちの盲目状態はいつでもこのような結果をもたらす。しかも私たちがこの

ような状態にあるかぎり、神は私たちに対してどのようになさることもできない。私たちは神に

ついてだけでなく、自分自身についても、見知らぬ他人となっているのである。

 以上の理由によって、私たちの最初にして基本的な必要は、まず自分自身に紹介されることで

ある。すなわち神の目より見た真理を知るということである。

 

 


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