長崎めぐみ教会 tearoom 2

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「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)から-6-

2019-05-08 16:04:57 | 読書

3 いっさいの必要としてイエスを見る (1)   

 P35

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 モーセは、燃えるしばのもとで神の御前に頭をたれ、彼をイエスラエルの民に遣わそうとして

おられる神にどのような名前をつけたらよろしいのでしようかと尋ねた。それに対して神はこう

答えられた。「『わたしは、有る者』。・・・イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは

有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました。・・・あなたがたの先祖

の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(エホバ―「英訳」)が、わたしを

あなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々わたしの呼

び名である」(出エジプト3・14、15)。この時以来神の名はエホバとなったが、この言葉は

ヘブル語の「わたしは有る」という語と同じ源から出ており、また同じ意味をもっている。

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 p38

・・・「わたしは有る」とは、まだ完成されていない文章である。それは目的語がない。わたしは

有るーわたしはいったいなんであるというのか。私たちは聖書を読み続けているうちに、神が

「わたしはわたしの民の必要とするいっさいである」と言っておられること、しかも「わたし

は・・・である」と中間が空白になっているのは、さまざまの必要が起こる都度その必要を文中に

入れて完全な文章を作るためであることを知って、どのような驚きに満たされることだろ。

 

 人間の必要がはいらなければ、この神の偉大な名前は「わたしはである」という閉じた円の

回りをから回りするだけとなり、神は人に理解できない存在となる。しかし人間の必要と悲惨

が姿を現したとたんに、彼はその人が必要とするものとなられる。ここで「・・・である」という

動詞はついに目的語を所有して文章の完結を見、その結果神の存在が現れ、人々は神を知る。

 私たちには平和が欠けているだろうか。では神は「わたしはあなたの平和である」と言われ

る。力がなければ「わたしはあなたの力である」となり、霊のいのちが足りなければ「わたし

はあなたのいのちである」、知恵に欠けていれば「わたしはあなたの知恵である」等々となる。

 

 p39

 「エホバ」という名前は、ちょうど何も書き入れていない小切手のようなものである。あな

たはさまざまの必要が起こるたびに、信仰をもって、彼があなたにとってどのような存在とな

っていただきたいかを書き入れることができる。しかもこの特権を嘆願するのはあなたではな

い。それをあなたに強く求めているのは彼である。彼はあなたが求めることを願っておられる。

「今までは、あなたがたはあたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれ

ば、与えられるであろう。そして、あなたの喜びが満ちあふれるであろう」(ヨハネ16・24)

 

 ちょうど水が低い所を絶えず捜し求めて、そこを満たそうとしているように、エホバは人の

必要を絶えず尋ねて、それを満たそうとしておられる。必要のある所、そこに神がおられる。

悲しみ、悲惨、不幸、苦しみ、混乱、愚かさ、圧迫のある所に「わたしは有る」という御方が

いて、ご自分の働く余地を与えられさえすれば、人の悲惨を最大の祝福に変えようと待ちこが

れておられる。だから飢えた人がパンを求めているのではなく、パンが飢えた人を求めておら

れるのである。

 また悲しみが喜びを求めているのではなく喜びが悲しみを求めているのであるり、空虚が満

たしを尋ねているのではなく、むしろ満たしが空虚お尋ねているのである。そのうえ、彼は私

たちの必要を満ただけでなく、彼ご自身が私たちの必要となられるのである。彼はいつでも

「わたしはわたしの民の必要とするものである」と宣言しておられる。


p40

 これはなんという恵みだろうか。またなんという驚きだろうか。なぜ神はこのようなことを

されなければならないのだろう。私たちはどのような権限があって、神にこのようなことを求

めることができるのだろうか。堕落以前の人間でも、神に対してこのような権限を持っていな

かった。まして、神に反逆して堕落し、しかもその必要と悲惨のほとんどが、自分自身の罪の

結果である人間に至っては・・・しかしこれが恵みであり、これが神である。


 恵みはその性質上、いつでも人間の必要に答えて引き出されるものである。しかもこのこと

は、神の側から見て、余分なことでもあとで考えだしたことでもない。それは神ご自身を啓示

する方法である。私たちの必要が介入しなければ、神は「わたしは・・・である」おかたである。

しかし、私たちの必要を満たす機会が与えられると、神は私たちの前にご自身の真の姿を現さ

れる。それがために、神に属する事柄を学問だけで理解しようとしても、決して神を見たり知

ったりすることができないのである。私たちが必要を携えて神のみもとに来る時、「あなた

がたはわたしがエホバであることを知る」という聖句は成就する。


 旧約聖書を読むと、時おりこの「エホバ」という空白の小切手の中に文字が書き込まれてい

て、私たちもまた必要の都度、それに書き込むことができると励ましている。私たちは時たま

エホバという名前がほかの語と結合されて、その時々の神の完結された名前を作っているのを

発見する。ある箇所では、イスラエルの民がうなだれた士気を鼓舞され、荒野の道筋に待ち構

えている敵軍と戦って勝利へと導かれるため、一本の旗を必要とした。ところが、彼らはエホ

バ神が丁度そのような存在となられたことを知ったので、アマレクに勝利を収めてから一つの

祭壇を築き、それをエホバニシ「主はわが旗」(出エジプト記17・15)と呼んだ。戦いはただ単

に彼らのものであるばかりでなく、彼らの神ご自身のものでもあったのである。

 別の箇所では、ギデオンがエホバの使いと顔を合わせ、そのために生命の危険を感じて恐れ

たところがある。その時のエホバは「安せよ、恐れるな。あなたは死ぬことはない」と言われ

た。エホバがギデオンのような罪人にとっても平安であることがわかったので、ギデオンはこ

の新しい啓示を記念するために祭壇を築き、それをエホバ・シャロム「主は平安」(士師6・24)

と呼んだ。

 さらに別の箇所において、エレミヤはやがてきたるべきメシアいついてこう言っている。「そ

の日ユダは救いを得、イスラエルは安らかにおる。その名は『わたしはあなたがたの義』ととな

えられる」(エレミヤ23・6-英訳)。イスラエルは救われ、安らかになる。なぜなら、エホバ

が彼らのために立って、あらゆる告訴に弁明し、自ら彼らの安全となり、彼らの義となられるか

らである。

 

 

 

 

 

 

 


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