長崎めぐみ教会 tearoom 2

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「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)から-11-

2019-05-17 10:54:29 | 読書

4.真理としてイエスを見る(4

p55

 

・・・営所の外とは、「イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がない」(エペソ・

2・21)外国人の居住区であった。普通これらの外国人は営所に住むことを赦されなかったので

る。

 営所の外はツアーラト(ハンセン氏病)の人のいる所でもあった。この病の持つ伝染性のため

に、いっさいの生活の喜びから除外されていたのである。

 そこはまた、律法違反者および犯罪者を処刑する恐ろしい場所でもあった。モーセの律法によ

れば、姦淫の者、安息日を破った者、偶像礼拝者、殺人犯、石を投げて殺されることになって

おり、その処刑の場が営所の外であった。

 しかし、使徒はここで、おそらく営所の外の最も陰惨と思える面を描写しているのである。

そこは、人の罪のために聖所に注ぎかける血を提供した家畜の死体が、うず高い燃えがらの上で

焼かれた所である。犠牲をささげた者の罪を象徴的に負ったその家畜は、神にも人にも徹底して

忌み嫌われる、罪にのろわれたものとして焼かれたのである。来る日も来る日も営所の外には

煙が上がり、あたりは言いようのない悪臭に包まれたのである。

 以上、あらゆる面から見て、営所の外と呼ばる地域は決して好ましい所ではなかった。それは

外国人、感染性のある特別な病の人、犯罪者、罪にのろわれた燃えがらの場所であり、忌避

すべき所であった。しかし聖書は、主イエスが、この営所の外を霊的に描写した場所に、十字架

負い、ご自分の血をもって民をきよめるために行かれたとしるしている。彼が十字架につけ

られた場所には、昔の営所の外が連想させるものと同じように無気味で恐ろしい「されこうべ

の場」(マタイ27・33)という名前がつけられている。しかし福音書はイエスが行かれた所は

私たちの行くべき所であると告げられている

・・・

 

  p58

 まず第一に、彼は私たちのため、御父にすら外国人のように見知らぬ者となられた場、すな

わち神に見捨てられる場所に行かれた。彼は十字架にかかって、「わが神、わが神、どうして

わたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。罪人が神を見捨てることに罪の始まりがあ

あるが、神が罪人を見捨てられることが罪のもたらす究極の刑罰であり、それは地獄にほかな

らない。イエスは十字架の上で神に見捨てられるその場所に行かれたのである。しかも彼は、

それが私たちの場所であるためそこに行かれたのである。私たちの分は彼が負われたのろいで

ある。私たちの分は彼が耐えられた神に見捨てられる状態である。この倫理をくつがえすこと

はできない。彼が私たちの場をとられた瞬間に、神に見捨てられたとしたなら、神の御前にお

ける私たちの真の立場はどのようなものであろうか。カルバリから輝いて来る真理は、神の御

前における私たちの戦慄すべき状態をなんと克明に描写していることだろう!


 次に、彼は私たちのため、道徳面での最も醜悪な者としてのの場をとり、あたかも

彼ご自身が罪の病に覆われた者であるかのようにふるまわれた。事実このことが、

「彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられた」(イザヤ53・4)という聖句の中で言及

されている。

   ・

  ・

 罪の始まりは、私たちの生活の中に小さな存在として表わされるが、頂点に達すると、神に

も人にも徹底して醜悪なものとなり、罪人を神との永遠の隔離に追いやる。・・・

・・しかし主イエスは、この道徳面での病人の立場を私たちのために進んでとり、神の目より

見て醜悪な姿をさらされたのである。なぜ彼がそのような立場をとられたかと尋ねるだろうか。

彼がそのようにされたのは、私たちがその立場にいることをごらんになったからである。私た

ちを救うためにその立場をとられる必要があったからである。したがって、道徳面での醜悪な

罪の病に覆われた者として、営所の外にある十字架に架けられたイエスの姿は、私の状態を明

白に宣言するものにほかならない。自分がそのような存在であることをほかの方法によって知

ることができなくても、イエスが私のためにとられた場を深く考えることによってそれがわか

ってくる。今の時代に、なんという不潔、不道徳、堕落の汚点が生きていることだろうか。

そしてそれらのものが巧みに隠されていることだろうか。しかしそれらのものは、イエスが私

たちのためにとられた場、すなわち十字架の上で、すべての人々の前に公表されているのであ

る。私たちは、それらのものがまだほかの人の場合のようには実を結ぶに至っていないと考え

るかもしれない。しかしカルバリは、それらのものが本質として、また芽の形で、私たちの

うちにあると宣言している。

 


 


 

 


 


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